短編Ⅲ | 留守番猫 1/2
7月の、まだ薄明るい夕刻。
店のドアを開けると、あいつはカウンターの中から驚いた顔をしてオレを見た。あいつの後ろには、噂の仔猫がちんまりと控えていた。
「悪いなあ、連絡もせずに来て。近くに用があったんでな、ついでにちょっと寄ってみたんだ」
オレは見え透いた嘘を口にしながらカウンター席の真ん中に陣取ると、「いつものを頼む。それから…そろそろ鮎のテリーヌの季節かい?」と訊いてみた。
「ええ、まあ。でも、親父さんが来ると思ってなかったんで、今、普通のクラッカーしか用意がなくて」
「じゃあ、それでいいよ」
「いや、そういう訳には」
あいつは手早く酒を用意すると、ギャルソンエプロンを外しながら、「今からバケットを買ってきますんで、ちょっと待っててもらえますか」と言った。そして、仔猫の顔をちらりと見遣りながら、
「親父さん、申し訳ないんですが、ひょっとしたら面倒な男の客が来るかもしれない。そのときには…」
「ああ大丈夫だ。これを鳴らせば、若いのが秒ですっ飛んでくる」
オレは手に持ったスマホを振って見せた。あいつはホッとした顔をして頷くと、「15分くらいで戻るから」と仔猫に伝え、慌ただしく店を出て行った。
…おやおや。あいつはあんなにわかりやすい男だったかな?以前は感情を表に出さず、いつも斜に構えた風だったと思うが。
店に残されたオレは、改めてカウンターの中の仔猫を眺めた。
…なるほど。確かにかわいい仔猫だ。全体的に小作りで、目だけがパッチリと大きい。淡い色の髪をゆるやかに波打たせ、小首をかしげながらオレを見つめている。
…ふうん、あいつはこういう女が好みなのか。
「お嬢ちゃんは、いくつかな?」
「…25です」
「25か。あいつとは20も違うんだな。お嬢ちゃんにとっちゃ、あいつは父親みたいなものかい?」
「…私に鎌をかけていらっしゃるの?」
オレは少し意表を突かれた。仔猫は澄ました顔をしてオレを見ている。
「…おじさま、とお呼びしていい?」
「ああ、いいよ」
「…おじさまは、私を見るためにいらしたんでしょ?」
…察しのいい仔猫だ。
オレは椅子に座り直した。
「お嬢ちゃんがそう言うなら話が早い。そうだよ。これまであいつに特定の『女』がいたことなんてなかったから、一度お嬢ちゃんに会ってみたいと思ってたんだ。ところがあいつは、オレがお嬢ちゃんを取って食うとでも思っていやがるのか、オレが来る日に限ってお嬢ちゃんを店に連れて来ない。だからこうやって不意打ちを喰らわせたって訳だよ」
「…残念ながら『女』じゃないの。ただの『飼い猫』なんです、私」
…そうなのかい?
オレは仔猫の顔を見た。仔猫は豆皿にナッツをよそいながら、長いまつ毛の影を白い頬に落としている。この話を続けるのはなんだか悪いような気がして、オレは話題を変えた。
「あいつが作るテリーヌはなかなか美味いだろ?あれは、あいつの母親の得意料理だったんだ。この店は、前は、あいつの母親がスナックをやってたんだよ」
「…おじさまは、その頃からの常連さんなの?」
「いや。あけすけに言えば、あいつの母親のパトロンだった。だから、あいつのことはガキの頃からよく知ってんだ」
「…マスターのお母さんの…?」
仔猫は驚いた顔をした。そして、ちらりと時計を見たあと、少し思案顔になった。
「あいつは今でこそ真面目にやってるが、昔はそりゃもう、手に負えないヤンチャでなあ。ろくに働かずに飲む・打つ・買うでさ。揉め事を起こしちゃあ、しょっ引かれて…。おっと、お嬢ちゃんにこんなことを言っちゃあマズかったな。オレが喋ったってこと、あいつには黙っといてくれよ」
幸い、仔猫はオレの話をあまり聞いていなかったらしい。
「…マスターは、俺が母親を殺したようなもんだ、って」
「なんだって?あいつがそんなことを言ったのかい?」
「…ええ、酔っ払ってそう言ってたの」
今度はオレが驚いて、手に持っていたロックグラスをカウンターに打ち付けた。そして時計を見た。あと10分もしないうちにあいつが店に戻って来る。
「何かを勘違いしてるな、あいつは。確かにまあ、あいつは悪だったからな。母親にもオレにも、さんざん迷惑をかけたさ。だが、あいつの母親が死んだのは、事故みたいなもんだぜ。店を閉めたあとに飲み過ぎて、吐いたもんを喉に詰まらせて窒息しちまったんだよ。それを、息子のあいつが最初に見つけちまったからなあ。そりゃあ、ショックだったろうよ」
オレはカウンターに頬杖をついて、当時を思い出した。
15年前。あいつは30歳で、母親は53歳で、オレは64歳だった。母親の死体を見つけたあいつは、真っ先にオレに電話をかけてきた。急いで店に駆け付けると、あいつは警察を相手に錯乱していた。カウンターの上にはメモ帳があって、「ちゃんと愛してあげられなくてごめんね」と書いてあった。
…あいつはあのメモを見て、自分のせいで母親が死んだとでも思っているのだろうか。親不孝者だったという罪悪感のために、妙な妄想に陥っているのだろうか。
「いくら息子がボンクラでも、それを苦にして死ぬような弱っちい女じゃなかったぜ、あいつの母親は。かなりなヤリ手ババアだったしよ。あのメモだって、酔っ払ううちにおセンチな気分になって書いただけだろうさ。妙にロマンチックなところがあって、たまに詩なんかを書いてたからなあ」
…あいつが勝手な勘違いをして苦しんでいるんだとすると、それは随分と気の毒なことだ。だが、オレが何を言ったところで、あいつは聞く耳を持たないだろう。孝行をしないうちに母親が死んでしまった事実は変わらないのだから、罪悪感が別のかたちになって現れるに違いない。
「あいつは小さい頃から、よっぽど母親のことが恋しかったんだろう。それが妙な風にねじ曲がっちまったんだろうなあ。もしかしたらあいつは、『母親は自分のせいで死んだ』って思うことで、『自分は母親にとってそれくらい大きな存在だったんだ』って信じ込みたいのかもしれねえ。それを今さら否定するのも、酷ってもんだぜ。なあ」
(つづく)