【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #30「もう一つの夢」
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「東京は、雪が降るの?」
「…そうやな、大阪よりは、よう降るし、たまに積もるな。」
「そうなんやね…。」
もしもスーさんの愛人になったら、東京に移ることになるのだろうか。そう考えた途端、若葉は現実に引き戻され、雪に降り籠められたような気持ちになる。
今、ポケットの中で自分の手を握ってくれている惣一郎の手がなくなったら、この先、誰が自分を温めてくれるのだろうか。
自分が一週間も店に出ず、代わりにママが出勤していた理由を、惣一郎は聞こうとしない。惣一郎は、この件について、どこまで知っているのだろう。
急に黙り込んだ若葉を、惣一郎はちらりと見る。身長差が大きいために、若葉の頭を見下ろすかたちになり、表情がよくわからない。ただ、ポケットの中の若葉の手がこわばっている。
若葉は、例の話をしようとしない。若葉が話さない以上、惣一郎も聞くことができない。だが、ずっと、どうすればいいのかを考え続けている。
惣一郎も、若葉と同様に雪に目を向けた。
足元から寒気が立ち上っているが、二人とも動けないままだ。どれくらい時間が経っただろうか。二人が思うほどは、経っていないのかもしれない。沈黙を破ったのは、惣一郎だ。
「…一緒に行くか。東京に。」
「え?」
「…春になって、暖かくなったら、二人で東京に遊びに行こ。」
「………」
「…東京は、俺も十年以上行ってへん。東京は美術館がようけあるからな。何の展覧会があるんか、ちゃんとチェックして行かなあかんな。
修行してた料理屋にも、若葉を連れて挨拶に行きたい。お世話になった兄さんらにも若葉を紹介したい。
それから、若葉を築地本願寺に連れて行ってやりたいな。まだ行ったことがないやろ?」
「高校の修学旅行は東京やったけど、そないな渋いとこには行かへんかったわ。」
「…そんなら一緒に行こ。あの寺は浄土真宗の寺の中でも、かなり変わってるからな。若葉も気に入るんちゃうかな。それから、どこ行こか。どっか、行きたいとこ、あるか?」
「じゃあ、東京タワーとか、スカイツリーとか?渋谷にも行ってみたい。表参道にも。」
「…渋谷か。あそこの駅前はずっと工事してたから、今どうなってんのか見てみたいな。墨田川で船に乗るんはどうや。俺もまだ乗ったことがない。」
「モクさんと船に?ふふふ、楽しそう。」
「…絶対行こ。二人で。」
「あたしも行きたい。モクさんと。」
「…若葉の目標が一つ増えたな。店の目標が三つに、旅行の目標が一つ。全部叶えようと思うたら、結構忙しなるな。」
「あたし、叶えたい目標が、他にも、もう一つあるの。」
「…なんや。まだ、あるんか。初耳やな。」
「うん、言うたことなかった。ほんまに叶えたい夢は、簡単には口に出されへんもの。」
若葉は空を見上げる。大阪の街の光を吸い込んで、どんよりとした雲がほの明るい。その雲から舞い落ちてくる雪が、さっきよりも小さく軽やかになっている。
「あたしね、弟の生まれ変わりに、会いたいの。」
「………」
「いつか、子どもを産みたいの。その子の顔や性格が、死んだ弟と全然似てなくてもええ。男の子やなくてもええ。その子を弟の生まれ変わりやと思うて、思いっきし可愛がりたい。
そんで、その子もあたしに思いっきし甘えてくれたら、あたし、もう寂しいと思うことがなくなるんちゃうかと思うの。」
惣一郎は、今朝見た夢を思い出す。若葉に目元がそっくりな、アナベルみたいに可愛らしい男の子の夢だ。
「…それはええな。俺も、若葉の弟の生まれ変わりに会うてみたい。」
「ほんまに、あたしの子どもに会うてみたい?」
「…ああ、会いたいな。どんなに可愛いんか、間近で見てみたい。」
若葉は惣一郎を見上げる。駐車場の外灯が、若葉の片頬を白々と照らしている。惣一郎の横顔を見つめる若葉の双眸に、強い光が籠められる。
「……それやったら、モクさん。」
ポケットの中で、若葉は惣一郎の手を強く握る。
「モクさんが、父親になってくれへん?」
「ええぞ。」
惣一郎は、若葉の意図を瞬時に理解し、ためらわずに即答した。
(続く)
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