過去と今、どちらで生きるのか迫られている
過去と「今」のどちらを選ぶのか? が迫られている
過去とは、経験・記憶・知識・ノウハウ・癖・感情など
未来を切り開くために得た何かはすぐに過去となり、
無意識に今に入り込む過去の「副作用」に、
私たちは苦しみ、衰え、ずれ、見間違え、流されていく
本当に得たものは、その瞬間と、あったとしても本質的な何か
掴んだと思い込んだ「本質的な何か」さえ、ほとんどは愚かしい自惚れ
何者かになりたい願望に付け込まれ掴まされたパチモノであり
早ければ1年、長くても数十年ほどで見向きさえされない
後から見返すと顔から火が出るほど恥ずかしい汚物となる始末
当時の当時なりの謙虚なふるまいさえ恥ずかしく思える
間違ったものを称え、間違ったものを誇り、間違ったものへの称賛に対して謙虚であろうとする
その全ての様子、関わる者全てが恥ずかしい
大したことのないもの、一過性の物、真理ではないもの、などに置き換えても同じ。
その滑稽さは、流行り寄せすぎた髪型と同じだ。
髪型なら、「時代だね~」と笑って終わらせられるかもしれないが、
学問や法律、ルールやマナーではそれで済ますわけにいかない。
体罰 や 差別 がいい例だ。時代だからいいとか悪いではなく、いつの時代でもおかしいと感じてそれをしない人はいる。
本当の自然体、普遍的でいること以外
後から見るとすべてみすぼらしく恥ずかしくなるようにこの世はできている
「いま」と「過去」がぶつかったとき、どちらを選ぶのか
今と過去の小さなぶつかりは、日々瞬間瞬間に起きている
あとはそれを見たいかどうか、気づきたいのか気づきたくないのかー
“実は、近年の羽生が口に出さなくなったフレーズがあります。それは、 「能力が衰えても、経験でカバーできる」 というものです。晩年までA級を保った故大山康晴15世名人の生涯を観ての着想、というか願望でしょうか。 しかし、繰り返しますが、羽生は此のフレーズを封印しています。ここに人間としての、正直さと誠実さを感じて、私が胸が痛くなります。 羽生は今、必死に戦っています。抗っています。 何と? 「経験」とです。永世七冠まで獲得した自身の経験と。つまり、 自身の経験は、AIを利用した学習にとって、ひょっとしたら無意味なのではないか? いや、それどころか、有害ですらあるのではないか? という、身体の内から延々と湧き出す、逃れようの無い、この上ない恐れと。”
※↑の方、かなりの才能の持ち主。15年前くらいによく天鳳で戦った思い出
この見解に全くの同感だ。
もちろん、過去から逃れられないのは天才羽生だけではない。
人はそれほど強くはない。
過去の栄光、成功体験、勉強したこと、努力したこと
ライバルとしのぎを削った形、熱く語り合った展開・勝負論
そのすべてがガラクタ、足を引っ張る荷物だという事実に直面したとき、
それを直視し生きざまを変えられる人間がどれほどいようか。
特に、昭和以前の人間に。
何度も自分を助けて、この世の真理なのではないかとも思えた経験則は、
いつしか単なる頼りがちで隙だらけの、センスの悪い悪癖でしかなくなり、
天才と呼ばれ、誰もが及びもつかず、神に例えて恐れられた思考回路は、
(どうせまたこう指してくれるんだろうなぁ・・笑)と若手にカモにされる
予測し御しやすい旧世代のパターン思考、こだわりとしか見られなくなる。
ー何度も、生かしたいと思ったはずだ。過去を生かしたいと。
今、過去が通用しないことは分かっている。でも・・でも・・
自分のやってきたこと、経験をなんとか生かせないだろうか?
そうでなければ人生の前提が崩れ去ってしまう感覚に襲われるから。
違うのだよ。 もはや「生かす」ことさえ許されない過去もあると
それは「捨てる」ことでも「捨てようとする」ことでもなく
ただ、こだわらずに今を生きる。
そして今を生きることで、過去が生かされる こ と も あ る
過去を生かして今を生きようではなく、今を生きようとして過去が生きてくる
まず先に自分ごと死んで生まれ変わる覚悟がなければ、
過去を生かせる可能性さえないと。
気づかねばならない時がきている。
記憶を宝として握りしめ、腐り衰え、幻影の中で沈没していくかー
日々、死んで生まれ変わり、厳しくも明るい今を生きるのかー
すべての前提が崩れ、生まれ変わっていく現代で
どちらで生きるのかの分岐点に私たちはいるように思える。
生まれ変わるか 引退か 平成の怪物の行く末が 時代の総括と重なる
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