敵はそこにはいない
敵は そこには いないのだよ
戦うべき 相手は その人(だけ)じゃないのだよ
もちろんそれは相手にも言える
戦う理由 敵になった理由を作ったであろう その人にも
各々がよりよく生きるために 何かと戦ったと思っている
だけども 大きな視点で見ると 誰も何もよくなっていない
一人の嫌いな人間が消えたところで 解決する問題
一人の犯罪者が捕まって 解決する問題
そんなものは本当に一時的で小さなことにすぎず
問題の根っこはそのまんま またすぐに生えてくるだけだ
敵という概念 それを倒せば解決する それ自体が 怪しくて
何かを本当に良い方向に変えることにはならない
そして人はいつもそれに薄々どこかで気づいている
気づいているけど変えない 気づかないふりをする
本当に向き合えば どんなことであれ
問題が大きすぎるから 戦う相手が大きすぎるから
そして、自分の中にある卑怯 ずるさ の根が深すぎるから
自分を劇的に変えなければならないから 懺悔しなければならないから
だから人々は みんなでそれをごまかしてきた
それさえも認めずに平和を装うか 語り屋となるか 戦ったふりをした
そして戦う相手を 自分より弱いものにしたり
安全圏から 多勢に無勢の相手の尊厳を奪うことや
集団や 世間や 同族 と同調し 攻めやすい誰かに向けた
純粋性を失った 勇気と魂の抜けた 行き場のない攻撃性を
弱い立場にある者に向けることしかできなくなった
さらには 自分らの攻撃性すら 認める能力を失い
正義や 論理や 空気などの威を借りては ことごとくその本質をすり替え
自らを 正しく まともで 冷静で 攻撃性などなく
正当で まっとうで 善良で 少なくても普通で
人や社会に悪いことなどしていない と思い込めるまで堕落した
敵は 個人や 小さな集団 なんかではないことに気づこう
それの嫌なところ 危険なところ 攻撃する理由があったとして、
それと同じものを持つ人間・集団が
この社会と世界には 何千万、何億と存在することを
本当は知っているんだろう?
それを直視するのが恐ろしいんだろう?
それが目の前のその人やごく少数の問題だと 思いたいんだろう?
そうしたら、それさえ何とかすれば、コントロールすれば、抑え込めば、滅ぼせば、自分が幸せに快適になれると思えるもんね。
でもそれは全く違うことを誰もが本当は知っている。
その個人が仮にいなくなっても 世界も社会もよくはならないことを。
知ってしまったら最後、目の前の相手を攻撃する理由を失い、
同時に強大で大きな社会悪や自らの改革が課題として立ちはだかる。
そのことについて、宗教家は自分の認識を変えろという。
それも本当だ。
だけどもそれだけじゃないことも知らなくてはならない。
楽になりたいだけならば、宗教家のいうとおりにしたらいい。
だけれども、私たちはただ楽になるために生まれたわけじゃないことをどこかで知っているはずだ。
子供の頃を思い出したらいい。
わざわざ疲れることを毎日していたんじゃないか。
表現やつながりや 発見や希望 を求めて毎日何かをせずにいられなかった
あのエネルギーをどう説明しよう。
みんなの中に少しずつあって 小出しにしあっている
ずるさ 卑怯さ 醜さ 陰湿さ 都合の良さ。
どこまで行っても 本当の問題はそこにしかなく
形あるものや 制度や 小さな個人にあるのではない。
それに気づいて 今日 今、このときに
マインド、考え方、表情、言葉、声、動き、行動を
正直で 屈託のなく 朗らかで 真実を伴うものに変えよう
そうありたいと願い そうでないものと決別しよう
それでしか世界を切り開くことはできず
そこに生をまっとうする道があるのだから
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