「忙しい&暇」ごっこ。誰の為にもならん忙しい演技で競う人々。

滑稽な「忙しい」ごっこ と 暇アピール

それだけでこいつは生きることの本質が分かってねえんだな、となる。


無駄な移動、無駄な話、無駄な買い物、無駄な人脈、無駄なファッション、無駄な習い事、無駄な化粧、無駄な早口、無駄な気張り、無駄な虚勢、

そのほとんどは本人の狙いとは逆に、一人舞台、つまり滑っており、

それだけなら自己満足できるから全然いいのだが、

それどころか、その結果生まれることは

無駄な浪費、無駄な疲労、無駄な老化、無駄な騒がしさ、無駄な競争 

などなど様々な弊害をまき散らす。

お 前 ら, そ の 時 間 を 割 くべ き も の が 他 に ね え の か よ。


その違和感に気づいたのは俺が小学生くらいのときだ。

母親も父親も常に「忙しそう」にしていた。

忙しいのではなく「忙しそうに」である。

それにものすごく違和感があった。

本当に忙しいときの「大丈夫?」とか「無理しないでね」という人ならば自然に気遣う気持ちが起こることが、20回に1回くらいなのである。

「うぜーな、いちいちいつも忙しいふりして、盾にしてんじゃねえよ」

こそが、その環境で培われた、純度の高い本音中の本音だったのだが、そんな感情は世間のフォーマットにはなく、どのような状況でどう伝えるのが健全かというお手本は、テレビ番組にも小説にもなく、ましてや身近にいるはずもない。

同じような状況は、全国津々浦々で、野放しになっていたわけだ。

必然的に、そういう感情は「抱いた自分が悪い」ものとして奥に沈められ、納得のいかない表情を伴いながら、「そっか。」とか「分かった。」で済ませるコミュニケーションが定着した。

そこから20年たっても、腑に落ちない気持ちは収まることはなく、自分が働いたり起業して、睡眠時間が3時間、客観的にみて鬼のように忙しいときでさえ、「忙しい」という言葉を、自分を守るための意味で自分から口にすることは只の一度もなかった。そういう気さえ起きない。

忙しい?と聞かれて、「う~ん、そうだね。そうかも笑」と答えることはあっても。

そこには、「その仕事、その状況、全部自分で選んでんだろ?」という当たり前の前提があって、そうである以上「忙しい」という言葉を自分から発することは、目の前で自分に関わる相手に対し、これ以上なく失礼であると自然に感じていたからだ。

会うか会わないか、関わるか関わらないかは、自分自身で感じている忙しさに応じて勝手に決めればいいのであって、もっと言えば、自動的結果的に、今日今の選択として表れているわけだから、わざわざ釈明する必要もない。

それが確信的に感じられるようになってからは、

父母に対しても、そういった発言があった瞬間に、一瞬で、

「じゃあ〇〇の時間けずれば?」「それ〇〇で効率化できるでしょ?」

「じゃ食洗器俺が買っとくよ」「融雪機つけようよお金だすから」「買い物まとめてすれば?」「それ人に任せることじゃない?」「ねえあなたテレビを何時間見てるか気づいてる?」

等の適切な切り返しができるようになり、その結果何が起こったかといえば、喧嘩が起こるどころか、父母は一切そういった偽装発言をしなくなり、そこから数年経って、逆に本当に忙しいときにみんなが気づいて気遣うようなコミュニケーションが定着した。

ただ、これはいきなりそこだけを真似しないでほしい。そこに至るまでに、言葉で言い尽くせないほどの道のりがあったわけなので。


そして今なら分かる。センスがよく、価値を生み、相手を尊重し、仕事でも成功し、僕が同じ種族だと思える人間はすべて、共通してそれを誰に言われずともやっていたということを。

逆に、俺が相いれないな、と感じる人間は自分の価値を表面上偽装する人間である。悪い意味で、相手や場からどうみられるかを表面上でやりくりし、その結果、忙しいふりや価値のない行動が定着し、かといって内面も満足しておらず、無意味な予定や行動を詰め込んで、生きることに溺れているのに気づかず、目の前の相手に「忙しい」と言ったり、あろうことか忙しさで相手の価値を図る愚かな人間たちだ。

両者は成り立ちからまるで逆である。

自分がちゃんと満足・充実できる一瞬を、一つ一つ丁寧に増やしていって、結果的に今、客観的にみても忙しいのか

忙しくするために、忙しく見せるために、目の前のものを全て疎かにしたまま、満足・充実できないものでなんとなくスケジュールを埋め、内面の空虚さをジャンクに埋めていることに気づかず、主観的に忙しいと思い込んでいるのか

後者の大多数に言いたいことは

お 前 の 忙 し さ ? を 作 っ て い る あ ら ゆ る も の に, 

俺 は 価 値 を 感 じ ね え よ, 


物事を道理を分かっている人間に、「忙しい」も「暇」もない。

優先順位が、自然発生的に、あるといえばある、だけある。

そして、目の前の相手に向ける、

時間・関心・態度・注意力の管轄は、本質的には自分の責任である。

なぜならば、会わない・しない という選択がそれ以前にあるからだ。

時間・関心・態度・注意力が十分にできない状態で相手に接するということは、「自分が忙しくて価値がある人間なのに、相手に価値がないから」ではなく、その状況に至るまでに「自分に状況を管理するだけの力がないから」である。初対面は除くとしてもだ。

つまりそれは、断じて忙しいうんぬんでなく、単に無能の表明でしかない。これらは分かる人には呼吸するくらい当たり前のことで、説明するのも疲れるな。

その言葉を、不適切に口にしただけで、バレてしまうことに気を付けよう。

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