仕事と社会悪
ハウスメーカーを例として。
このハウスメーカーは、顧客の評価もとても高く
創業50年たってもトラブルの報告もない素晴らしい仕事をし続けていた。
地域でも有名なホワイト企業で、社員満足度も高い文句の付けどころのない企業に成長した。
社長も当然そういったことを自負している。
ところがある日、環境団体に属しているという
名も聞いたことのない、なんの影響力もなさそうな活動家がこう言った。
「あんたのような会社のせいで、何本の木が切られてると思ってるんだ?」
このとき、面白いことに会社が優秀とされていればいるほど、
社長らの反応は 逆方向の 両極2つに 極端に分かれる。
表面的な業績や評価などが 95%くらい同程度でも、だ。
実際に何を言うか(どう取り繕うか)は別として内心の動き
①
お前はどこの誰だ? 聞いたこともないような奴が いきなり何を言うんだ
だいたい どれだけうちが社会に貢献してると思ってるんだ
顧客 従業員 それから社会の評価だって高い
それに うち以外だって 環境には 同じことしてるだろう
なんでうちだけにそれを言う? それを言ったってしょうがないだろう
うちは間違ってない 俺は間違ってない 大丈夫
こいつは分かってない こいつに指摘する権利もない
こいつに価値はない だから気にしなくていい 忘れよう
②
確かにな この人のいうとおり
失礼や礼儀 立場とか 問題の大きさ難しさ は一旦おいておいて
言っていること自体 間違っていないし 本質でもある
私もそれについて 随分と考えてきた
そして その悪性 その社会悪を どうにか小さくできないかと
できる限りのことをしてきたつもりだ
それが合っているか 十分なのかは 分からない
おそらく最後まで分からないだろう
だから この人を含め そういう声には真摯に向き合い
その問いに向き合い続ける以外にないと 私は思っている
この中で、人により 欠けたり 強弱があったりはするが
この両極の方向性に分かれる。
この2つの方向性が弱く混ざることはあっても、どちらも強いことはない。
どちらかが強ければ 片方が弱まる
これが何を意味するかといえば、
この世の 三次元の 答えのない行き止まりで
その人がどうそれを受け止めて処してきたか?
真の奥の行動の動機がどこから来ているか?
つまるところ 次元 の問題が立ち現れている
どれだけ知識があろうが
どれだけ立派なことを諳んじられようが
どれだけ余裕があるときにいい人でいられようが
その人の次元がその際 露わになる
①をもう一度
この中に、活動家が言った「何本の木が切られてると思ってるんだ?」に
きちんと向き合った言葉は一つも存在しない。
すべて、別の要素 別の評価基準 別の軸 を持ち出している
それはすなわち、「覆い隠す」「押しつぶす」働きであり
ごまかし 以外のなにものでもない。
そして このパターンの思考、感情の流れは
必ず最後に 「割り切って」終わるのである。
割り切りが立ち現れるのは、
その疑問に対して 強く覆い隠さないと
自分の現在(の行動や思考やルーティーン)が否定された感覚になり
エネルギーが減るから
攻撃性を持って相手を否定することで
自己肯定で終わらせようとする働きである
この行動様式は日常のいたるところで存在し、
人間のだいたい80%はこういった様式によって支えられている
目先のエネルギー確保のため、
なりふり構わず 割り切って 突き進む
どんな問題であれ、 口汚く相手を罵り
価値を下げ 自分を上げる都合のよいプロセスによって
結論付けたつもりになる
ところが、問題に対して一切向き合ったことにはならないので、
根本的な問題や疑問に対するアプローチ、哲学、行動は
まったく進まないため、いずれ大きな問題となって現れる
この行動様式が奥に潜んでいる限りは
どれだけ上手くいっているように見えても
残念ながらその問題に対して解決できたことにも
成長していることにもならない
最後に、②をもう一度
この人は、自分に有利に働く社会的なすべての要素を一旦脇に置いて
問題だけを真摯にとらえようとしている。
それに答えが出ないであろうことも
難しいということも
自分がその責任や苦しさや
社会悪や罪の可能性から逃れられないことも
すべて受け止め 楽になろうとせずに
できる限りのことをし続ける糧にしようとしている
このあり方は とても苦しく とても辛い
そして 本当に成熟した他人以外 理解は難しく
社会的な評価も必ずしも伴わない
考える度に 自分への疑いや自責の感覚が想起され
エネルギーが削がれたり 無気力になったり
己の小ささや 無力さを 味わうことにも繋がる
この一種の自己否定は
未熟な人間には 到底 耐えきれない苦痛だ
だけれども
それを分かって 背負った上で
それでもなおそのように選択した人間
言い換えれば
偽りの 仮初の 浅はかな 善
でありたいことを諦め
社会悪に加担している自分とも正面から向き合う
そこで味わうのは、真の絶望と 救いのなさ
どこにも逃げ場がなく どこにも道はない
どこにも光はなく どこにも希望はない
そう感じるほどの本当の行き止まり である
圧力鍋みたいなものかな
それか例えは悪いけど原爆とか。
だが、その「圧力」「苦しさ」
すなわち「その次元の限界」で
本当の努力 本当の忍耐 本当の思考 を試されることによって
その次元にはどこにも無かった道が
次の次元が立ち現れるのである
そして超えた者だけが、②のフローに至れる。
ある急所、致命的な問いに対して②であれる人は
その次元を超えた証明でもあるのだ。
この世には①の人間、企業がまだ多すぎる
①は自覚のないテイカーである
①は問題を 気づきにくい誰か 声の小さい誰か もの言わぬ何かに
押し付けているだけである
①は与えたもの以上のことを奪う宿命にある
社会にとっての善とは
個人が①として成功することではない
①として成功するような仕組みを是とすることでもない
この話は 種類が何であるかを問わない
あなたにとって致命的な何かを 同じように指摘されたときの
あなたの心と思考の動きだけが その証明なのである
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