蒔いた種は刈り取らなければならない、ー蒔いていない草木もだ。
古くからの諺で聞いたことがあるだろう。
あるいは精神世界、スピリチュアルなどでもよく聞かれる。
蒔いた種は刈り取らなければならない、だとか
自分に全部帰ってくる、だとか。
因果応報、だとか
それはおおむね合っているとして、多くの人が誤解していることがある。
来たものがすべて自分の蒔いた種である
とまでは誰も言っていないのだよ。
よくある論理学的な間違いとして
「AをするとBになる、だからBであるならばAだ」がある。
違う。Bの原因がAだけとは言っていないからだ。
BになるにはA以外の要因もある。
庭で考えればよくわかるだろう。
何かが生えてきたら、何かが起こったら、全ては自分の蒔いた種である
ーはずがない。知らない雑草のほうが多いことくらい誰だって分かる。
同時に、自分の所有地の雑草は自分が何とかするしかないことも。
先書いたような言い回しを見聞きしたら、必ず補足するといい。
蒔いた種は刈り取らなければならない、
それから、ー蒔いていない草木もだ。
雑草は、庭の所有者が蒔いたから生えるわけではない。
そこら中に、四六時中、種やら地下茎やらが存在し、
適材適所でその根を下ろすのである。
つまり、生えやすい環境であるということだ。
このことから言えるのは、人はあらゆる行動、作為、思念、その他
積極的な行為によってその報いを受けるが、
積極的な作為がなくとも、ただ存在しているというだけで、
なんらかの存在に働きかけ、引き寄せ、影響を与える。
何らかのわざわいが起こった時、
誰かが物知り顔で「あなたが蒔いた種だ」というかもしれない。
ーしかしそうとは限らない。
多くの場合、よほど鈍感でない限り自分の積極的な行いについては心当たりがあることだろう。
そうではない場合、それは種を蒔いたからではなく、
その人が、生えやすい土地であったからかもしれない。
その場合、その人に「責任」があるかとか、「悪かったか」いう問いは的を外すことになる。
ただ言えるのは、土地を変えるのはどんな種を蒔くか蒔かないかよりも、はるかに難しい問題だということだ。
言い換えると、人の在り方を変えるのは、人の行いを変えるよりも難しい。
時代は、行いベース(定義、作為、行為、責任)ではなく
存在ベースでどうあるか?という問いに突入している。
因果について考えることがあったら、それを思い出すとよいだろう。
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