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縄文時代にも考古学者がいたのかも

新潟県村上市は、「阿賀あがきた」とよばれている地域のくくりの中にあります。
阿賀野あがの川以北の地域で、戦国時代には、「揚北衆あがきたしゅう」として、上杉うえすぎ家のいうことを聞かない無法者のような認識だったとか。。。

縄文時代晩期ばんき後葉こうよう、約3000年前になると、この阿賀北で独特な土器が登場します。

元屋敷もとやしき遺跡出土の縄文時代晩期後葉
大洞おおほらA式土器並行の浅鉢あさばち

写真の土器です。
縄文時代晩期ばんき後葉こうよう大洞おおほらA式土器並行の浅鉢あさばちです。おく三面みおもて遺跡いせきぐん元屋敷もとやしき遺跡から出土しました。

大洞A式土器は、工字文こうじもんという、平行する2本の横線の間に縦線を入れる文様もんようが主たる文様になります。
平行横線に縦線があるのが「工」のようで、このように呼ばれています。

写真の土器には、
この工字文と
眼鏡状めがねじょう突帯とったいという、盛り上がった隆線りゅうせんに短い横線をほどこした文様が確認できます。

そして、いつもの大洞A式土器だと、胴部には、縄文が転がされているのですが、この写真の土器は、違います。

縄文の代わりに、押型文おしがたもんという地紋じもんが転がされています。
木の棒に彫刻ちょうこくして、粘土に押し付け、転がすと、縄文のようなあとがつく工具です

土器研究者は、ドキりとしますよ。土器だけに。。。
なぜなら、押型文は、縄文時代早期(約8000年前)に日本中で流行した文様で、3000年前の晩期には、とっくに姿を消していた文様だからです。

5000年もの時間的へだたりをて、リバイバルする押型文

なにそれ!!

ってなりますよ。

元屋敷遺跡出土の縄文時代晩期の粗製そせい土器(押型文)

こちらの写真の土器も、晩期の深鉢ふかばちですが、押型文のみなので、「縄文時代早期もあるですね」と他地域の研究者には言われるんのです。

しかし、こう言いますよ
「縄文時代晩期の押型文なんですよ」

みなさん「?」ってなります。
そして、はじめの写真の土器を見せると
「!!」ってなります。

工字文こうじもん眼鏡状めがねじょう隆帯りゅうたいという、まごうこと無き「晩期後葉」感が研究者の方々をだまらせます。

粗製そせい土器のほうも、器面きめん調整ちょうせい口縁こうえん頂部ちょうぶ面取めんとり、器形きけいなどの特徴から晩期であることが分かるのです。

しかし、なんでまた押型文?

縄文人は竪穴建物たてあなたてもの掘立柱建物ほったてばしらたてものなど穴を掘りますよね。
もしかして、穴を掘った時に、縄文時代早期の土器片を見つけていたのかも。

ここからは妄想ファンタジーです。しかも重症の妄想癖もうそうへきです。

土の中から、だれも埋めたわけでもないのに土器片が。
記念にコレクション
りや採取さいしゅがおわれば、自由時間。
掘り出した土器片をながめている。
あれ?これ、縄を転がした痕じゃない、なんでこんなあとがあるんだろう?
土器づくり名人に聞いてみたり、なわない名人に聞いてみたり。
そして、とうとうたどり着く。
木の棒に彫刻して、転がしたんだ。
よしやってみよう。

こうして、大昔の土器にむきあう縄文時代の考古学者が、押型文土器のなぞを解くのでした。。。

縄文晩期押型文には、「く」の字の押型文しかなく、バリエーションが増えなかったのは、こんなドラマがあったからかもしれません。

ただ、

阿賀北の縄文時代晩期後葉には、東北の大洞A式土器と、関東、長野の土器の影響を受けた鳥屋とや式土器が共存しており、縄文も、網目状あみめじょう撚糸文よりいともん羽状縄文うじょうじょうもんといった東北・関東でも用いられるので、
縄文時代晩期後葉に、さまざまな縄文の原体げんたい模索もさくされ、独自性を探していたのかも知れないといった観点もあります。

なんともロマンのない話をすると

縄文時代晩期後葉に、押型文による地紋があったという事実だけ

しかし、
縄文人の土器アーチストが、縄文を超える独自性の発露はつろとして、土器の工具のことを、機能や文様を両立するために、悩みに悩んでたどり着いたのが、5000年の時間を飛び越えて押型文に行き着いたという奇跡を、
さらに、3000年後の我々が妄想するという不思議。。。

なんか、素敵やん
ってなりませんか?

ここまで、お読みいただき、ありがとうございました。
あなたの心には、縄文のなにが残りましたか?
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