「銀河鉄道の夜」を終えて
このタイミングでこの作品に、
舞台に関われた事、本当に良かった。
何から何まで繋がっている。
初めに、
この機会を与えてくれた、全てのもの、人(お客さん、見れなくても気にかけて下さった人達を含む)に感謝したい。
有難うございました。
相変わらず、くどくど、うだうだと、
考える年だった。
その割に答えが出ないで辛くなって
最終的に電池が切れる。
どうしても前回の初舞台の感覚があって、
フワフワとしている節もあった。
これで良いのだろうか、だとか。
前回に比べてセリフが少ない。
出演者も少ない。
別物だ。
そうか、ライブと同じ。
ステージに立ってしまえばそんな事
全くもって関係無い。
最近始めた配信アプリだとか、仕事だとか、
音楽活動だとか。
特に音楽に置いては、それなりに頑張ってたつもりではあるが、
そんなもの「つもり」でしか無く。
無駄に長く続けているだけで
そこに「密度」はあったのか?とか。
確かに生み出した作品達は
大事な作品ではあるが、
形として残ってはいないものが殆ど。
歌が上手い、演奏が上手い、
パフォーマンスが上手い、
自分より上手い人間はごまんといる。
俺には何がある?
何もねぇじゃん。
演技に支障が出そうで3日前位から、
何も考えないようにしてみた。
頭の中は演劇の事だけ。
こんなセリフがあった。
「どうなってしまうんだろう、僕は消えてなくなるのかな」
舞台が終わるとどうなるのか。
そんな不安は、この台詞に呼び起こされた感情か、はたまた、
それがなくとも
今年を生きてきて辿り着くべくして
抱いた感情か。
そして本番。
始まって
舞台袖で待機している時に唐突に理解した。
自分は一つのパーツでしか無いと。
一つの作品において、
自分は一つのパーツでしか無い。
音楽でステージに立つ時も、
ずっと自分は顔として、あった。
でも今回はそうではない。
それが今までずっと
あったフワフワとした違和感だったのだ。
今回は顔じゃ無い。
だからこそ、何が出来るか。
何故か唐突に
RADIO HEADの有名曲、「creep」でのギタリスト、ジョニーグリーンウッドのギターだと思った。
トムヨークの「so fuckin' special」と歌った後のギター。
無くてはならないが、顔では無く、橋渡し。
セリフが少なく短い分、精度が問われる。
気持ちは入った。
泣いた、つもりは一切無かったが、何故か両の目の下瞼が薄ら濡れていた気がした。
袖に戻った時、左目に雫が伝った様な感触があった。
終演後お客さんに、なんでか泣いた、という意見をもらった。
共演者のお二人も本番泣いた、と言っていた。
良い舞台になったのでは無いだろうか。
あくまで作品の一部になっていたので、仮に映像が残っていたとしてもしばらく客観的には見れないだろう。
原作と脚本と演出の意図がただしっかりと伝わっていれば良いなと強く思う。
舞台というのは
脚本、演出、音楽、照明、の力が5割、6割なんじゃ無いかなと、今になって思う。
その5割、4割の中での100%を出せるように
精度を高める。
客観視出来ないとは言ったが、
今回音楽の力ってやっぱり凄い、と感じた。
自分も、映画や舞台、人に寄り添える音楽をもっと探究したいと改めて思えた。
「銀河鉄道の夜」は幼少期にアニメ映画を親父に見せて貰った。それ以来、原作を読んだり、自分も銀河鉄道の夜にまつわる曲を書いたり、
事あるごとに、再会する縁がある。
https://youtu.be/iRkapmPH5-4
いつぞやのクリスマス前、この「パレード」という曲を「パレードe.p.」として心斎橋のTSUTAYAでリリースのライブをさせて貰った。
寒空の駅で録音した「ザネリと町衆」という曲も入っている。
今は廃盤になってしまってるが、近々youtubeにアップロードしようと思う。
舞台が終わって、何も無くなるのでは無く、 始まった感触がある。
それが
とても、嬉しい。
2020年。
自分には何も無いな、と改めて感じた。
0になった。
2021年。
0が1になる。
何かが始まる予感がしている。
邁進。
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