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憧れと諦め
そこそこ人生生きてきて、
覚悟って諦めの上に成り立つものなんだと気付いた。
憧れを正、諦めを負の感情と思って生きていた。
今はむしろ逆なのかもしれないと思っている。
道や選択肢が沢山あるのはいいこと、だとは思うけれど、その結果、迷いや悩みが生じる。
ランニングにしても乗り物にしても、
移動での迷いは時間を食う。
急いでいる時に立ち止まるのはよくない。
いや、だけども逆方向に進んでしまうくらいなら、立ち止まって自分の立ち位置をしっかり把握する必要もある。
憧れとは自分の中に無いものである。
これを負の感情、とまでは言い切れないけれど、
憧れに対しての距離が気になって、ネガティブな感情を抱くことは多々ある。
「道草を楽しめ、大いにな」というのは
大好きなHunter×Hunterの作中の言葉で、自分の中でテーマにもなっている価値観ではあったのだけれど、これはプロハンターと言う名の信頼を得た主人公とその父親の二人の会話である。
俺はというとまだ何者でもなければ信頼もない。
むしろ信頼関係を構築出来そうな所をいつも自ら、壊しにかかってる節がある。
そこに着目すると、人に迷惑をかけて申し訳ない気持ち、だったり、
信頼関係を誰とでも築いてる人物像への憧れがあるわけで。
そういったものにずっと苦しんで前に進めずにいた。
やはり足を引っ張られるのは憧れなのだ。
それを諦めを持って断ち切る。
今の自分に必要なこと。
レコーディングの経験だって活動歴の割にめちゃくちゃ少ないけど、
諦めや締め切りがないと終わりがない。
終わらせることができないといつまで経っても次に進めないのだ。
今年の前半にぼやき漫談などの活動する
フリーランスの芸人のナオユキさんと出会った。
春一番というイベント。
人の沢山いる野外ホール。
バンドマンが出演しては盛り上がる。
その中で一人、身ひとつで憂いを帯びたBGMで登場し、酔いどれた口調で話し始め、会場を笑い声で満たしてゆく人物。
過去にはR -1グランプリのファイナリストとしても名を残している。
登場の時点でトムウェイツ味を感じたから、というのもあるかもしれないけど、そんなこと抜きにしても、面白さと、格好良さで、リスペクトの心が芽生えた。
それが数ヶ月後、何の巡り合わせか、お世話になっているバーで前座を務めさせていただける機会をいただいた。
本当にたまたま。
そこではナオユキさんの名前を一度も出したことがなかったにも関わらず、である。
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自分の出番が終わると「一生懸命やね」と言われた。
考えすぎてしまう悪い癖が出かけてしまったけど、
ナオユキさんの出番前に一言いただけたのがとても嬉しかった。
2部制の素敵なパフォーマンスが終わってから、
少しお話しさせていただいた。
その時の言葉を、じっくり咀嚼させていただいた結果、今の心境がある気がしていて、ここに記しておきたくなった。
「看板(キャッチコピー)が欲しいんですけどイマイチ自分が何屋なのかわからなくて。。。」
と相談をしたところ、
「本物の人間に出会えてないんちゃうかな、その道のプロ。」と。
曰く、
そういう人が身近にいると、同じやり方じゃこの人には敵わん、って風に道が閉ざされていくと。
そうやって閉ざされた道の先にオリジナルの、自分の道が見えてくる、との事。
実は看板云々の話は他の人にも同じような質問をしたこともあったけれども、
この時ほど明確な答えを提示してもらえたことはなくて。
ナオユキさんもやはり、その道のプロで。
憧れではあっても別に追っかけんくてもええんやで。
なんて言われた気がした夜だった。
テレビや漫画、映画や小説なんてフィクションの見過ぎで、
咀嚼の過程をついつい忘れてしまう。
それらのメディアには咀嚼や反復の過程は省略されてしまいがちだからだ。
部分的に記憶が欠落するのはまだいい。
忘れたことすら忘れてしまうのが怖い。
なかったことになってしまう。
ナオユキさんにいただいた考え方は、忘れたくなくて、ここに記した。
誰からいただいてその時の種がどんな形をしていたか。
今、養分を蓄えて、種は芽となり、
諦めの必要性を肌で感じ取っている。
大事なものを守り育てるための諦め。
進むための諦め。
掴みにくための諦め。
大事なものを諦めないための、諦め。
何だよ、諦めって養分じゃん。
動物は生きるために逃げるのに
人間は逃げるのをよしとされないのはおかしくないか?
別に逃げていいぜ、、、みたいな曲作ったりもしたけど。
今思うと、やっぱりそれすら逃げで。
野生動物の社会と人間の社会性は別なのだ。
でもそれがダメってわけではなくて、
恐怖心からはほとんどの人間が目を逸らす。
自分なんかは直視できず逃げ回る、おそらく人の倍以上逃げ回っている。
ただいい加減、それ自体がしんどくなってきた。
敵が何者なのかわからなければ勝負のしようがない。
何者かもわからないものから逃げ続けるのはゴールのわからないマラソンに似てる、、、気もしたけど、そう考えると意外とそれは得意なのかもしれない。
逃げ続けて得たものもなくはないのだ。
そろそろ違う動き方してもいいんじゃないの?
そこで向き合うために9月に入って部屋の目につきやすいところに
「直視」と太文字を書いて貼り付けた。
貼ってなかった時より幾分かはマシである。
息が止まりそうな瞬間が増えた実感はあるけど乗り越えた後の自信も得れている気がする。
俺は最終的に人に与えられる人間でありたい。
こんな事くらい乗り越えられなくてどうする。
9/25(水)にライブをします。
阿倍野ロックタウンというでっかい所で。
誕生日の祝いや10周年目前のエールとして顔見せに来て下さい。
よろしくお願いします。