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房玄齢とその妻 恐妻家の真相(記事73)

前回は李宗吾の「怕老婆的哲学(妻を恐れることの哲学/恐妻家の哲学)」から、恐妻家は成功するという「学説」を紹介しました。

李宗吾は恐妻家代表の一人として大唐帝国建国時の賢臣・房玄齢ぼうげんれいを挙げています。以下、抜粋して簡単に訳します。

「房玄齢は極めて策謀に長けていたが、夫人による圧迫だけは避けられず、為す術がなかった。ある時、突然こう思った『唐太宗(李世民)は当今の天子だから、当然、妻を制伏することができるだろう。』
そこで房玄齢は太宗に訴えた。
太宗はこう言った『妻を呼んできなさい。私がなんとかしてやろう。』
ところが房玄齢の妻が口を開くと、太宗は返す言葉がなくなってしまった。
結局、太宗はこっそり房玄齢にこう言った『あなたの夫人は、私でも会ったら恐くなった。今後、君は彼女の命令にしっかり服従していればよい。』
太宗は臣下の妻に会っても恐れるくらいなのだから、さすがに開国の明君である。」

以上が李宗吾が引用している房玄齢と妻の話です。
しかし明代に馮夢龍が編纂した『情史』には異なる角度から見た話が紹介されています。以下、『情史』からです。

「盧夫人は房玄齢の妻である。房玄齢はまだ身分が低かった頃、病を患って瀕死の状態になったことがある。その時、房玄齢は妻にこう言った『私の病はとても重い。あなたはまだ若いから、寡居(一人で生活すること)すべきではない。後の人(新しい夫)に善くつかえなさい。』
すると盧夫人は泣いて帷の中に入り、片方の目をえぐり取って、房玄齢に見せた。彼女に他念(他の考え。再婚するという考え)がないことを明らかにするためである。
後に房玄齢は病から回復し、終生、妻に対して礼を用いるようになった。
梁公夫人(盧夫人)が極めて嫉妬深かったという件について考察する。
太宗が房玄齢に美人を下賜しようとしたが、房玄齢は繰り返し辞退して受け入れなかった。皇帝(太宗)は皇后に命じて梁公夫人を招かせ、『媵妾の流(正妻の他に妾をもつという習慣)は、今では普通の制度になっている。しかも司空(房玄齢)は高齢なので、帝は優詔(臣下を優待する詔)を下したいと思っている』という内容を伝えさせた。
しかし夫人が考えを変えなかったため、帝は令を発してこう言った『もしも(今後)嫉妬しないというのであれば生きていられるが、やはり嫉妬するというのであれば死ぬことになる。』
帝は人を送り、一杯の酒を注いで夫人に与え、こう告げた『もしそうするのなら(嫉妬を選ぶなら)、この鴆(毒酒)を飲め。』
実際は鴆ではなかったが、(それを知らない)夫人は杯を取ると一息に飲み干してしまい、(結局、帝は)夫人に難問を与えて考えを変えさせることができなかった。
帝はこう言った『私でも畏れるのだから、玄齢ならなおさらだ。』
人は房公を『怕婦(恐妻家)』と言うが、あるいは(房玄齢が)剔目の情(目をえぐって貞節を明らかにした情)に感じていたことを知らないのではないか。」

この話は、房玄齢はただ単に妻を恐れていたのではなく、妻に対する愛情や敬う気持ちといったものが背景にあったのだ、と説明しています。
(意地悪な見方をすれば、執着心の強い妻は自分の目をえぐり取るくらいだから、房玄齢は異常な妻を終生おびえていた、とも読めなくはないですが)

夫婦の事というのは、表に見えている現象よりも複雑ですね。

今回の画像は『三才図絵』から房玄齢です。

『三才図絵』は房玄齢の字を「高年」としていますが、
房玄齢は名を「喬」といい、「玄齢」が字のはずです。

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サノマ(中国生活をつづったり、写真・画像を整理するノート)
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