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三国志のこと 三国志の時代は諸葛亮死後の方が長い(記事53)

中国歴史小説『三国志』(正確に言うと『三国志演義』、中国では『三国演義』ですが、ここでは簡単に『三国志』と書きます)の主人公は劉備と諸葛亮だと思いますが、特に諸葛亮が登場してからは、劉備が情けない人にみえてきて、完全に諸葛亮の一人舞台になっている感じがします。
その諸葛亮が死ぬと、物語はいっきに終結に向かい、蜀が滅んで魏が司馬氏に乗っ取られ、最後は晋が呉を滅ぼして天下を統一します。

なんとなく三国時代の中心は蜀で、諸葛亮が頑張っていたから三国が鼎立していたけど、諸葛亮が死んだことで蜀が滅び、天下統一の趨勢が決まってしまった、というような印象を抱きます。

ただし、実際の歴史を見てみると、長い長い100年にもわたる三国志の時代において、諸葛亮が蜀で実権を握っていた時間は十年程度しかありません。

ちょっと解説です。
三国志の時代(「三国時代」ではありません。後述します)は黄巾の乱(中国では「黄巾起義」といいます)から始まって、晋(西晋)が呉を滅ぼすところで終わります。
時間にすると、西暦184年から280年の約百年間です。

諸葛亮が劉備に登用されたのは207年、27歳の時です。
その後、赤壁の戦いや荊州・益川・漢中の攻略を経て、221年に劉備が漢の皇帝を名乗りました。歴史上、「蜀」「蜀漢」と呼ばれる国です。
劉備はその二年後の223年に死に、息子の劉禅が即位しました。諸葛亮が蜀の実権を握るのはこのあたりからです。この時、諸葛亮は43歳です。
しかし諸葛亮は約10年後の234年に死んでしまいます。現代ならまだまだ若い54歳でした(ただし、三国志の時代は約1800年前、日本はまだ弥生時代なので、当時の54歳はそれなりに長生きだと思います)。

小説『三国志』では、この後まもなく蜀が滅び、天下が統一に向かって動き出したような感覚に陥ると思います。でも、蜀が滅ぶのは263年の事なので、諸葛亮が死んでから約30年も経っています。諸葛亮が実権を握っていた期間より、三倍も長いのです。
その後、魏が司馬氏に乗っ取られますが、これは蜀が滅んだ二年後の265年の事で、ここから晋(西晋)の時代が始まります。
そして、呉が晋に滅ぼされるのは更に十五年後の280年の事です。

上述の通り、三国志の時代は184年から始まる約百年間が舞台ですが、諸葛亮が死んだのは234年なので、三国志の時代のほぼ真ん中で諸葛亮は舞台から降りたことになります。

もちろん、諸葛亮の政治が優れていたから、蜀は諸葛亮の死後も長く存続できたという点は間違いありません。ただ、諸葛亮を継いだ人々も優秀だったはずですし、もしかしたら暗愚とされる劉禅も優れた主君だったのかもしれません。
また、小説『三国志』は劉備と諸葛亮を中心に描いた物語なので諸葛亮死後の扱いが粗末になるのは仕方がないことですが、諸葛亮死後にスポットを当てた物語がもっと増えてもいいのではないか、と思っています。
(とはいえ、そういう小説は売れないのでしょうねえ…)

ちなみに、ここまで「三国志の時代」と書いてきたのは、「三国時代」と区別するためです。
繰り返しになりますが、「三国志の時代」は小説『三国志』が扱っている黄巾の乱から呉滅亡までの約百年間です。
これに対して「三国時代」というのは、魏が漢(東漢)を滅ぼした220年から始まり、呉が滅亡する280年までの60年間、もしくは、晋が魏を滅ぼす265年までの45年間を指します。

以上、たまにはちょっとだけマジメに歴史の話でした。
今回の画像は明治時代に日本で出版された『通俗二十一史』から「諸葛亮」です。

左下に「三才図絵縮写」と書いてあるので、『三才図絵』を見てみると同じ絵がありました。解説つきです。

明代の漢文なので、現代中国語ができればほぼ読めると思います。

ついでに『三才図絵』の宣伝です。

上中下あわせて約3000ページ、定価はちょっと高めで398元です。
(日本円に換算したら、この質と量で約8000円なら安いかな)

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