成功する男は妻がコワイ…? 中国史(記事72)
前回、李宗吾の『黒厚学』を紹介しました。
腹黒くて面の皮が厚くなければ成功できない、という「学説」です。
李宗吾は「怕老婆的哲学」という文章も残しています。
「怕(pà)」は「恐れる/怖がる」、「老婆(lǎo pó)」は「妻/女房」なので、「怕老婆的哲学」は「妻を恐れることの哲学」「恐妻家の哲学」という意味になります。
代表的な恐妻家として李宗吾が挙げているのは、
三国時代の劉備
東晋時代の王導と謝安
天下を統一した隋文帝
初唐の賢臣 房玄齢
明代の将軍 戚継光
清末の大臣 李鴻章
などです。
この中で恐妻家として最も有名なのは、魏晋南北朝時代の大混乱を終結させて隋を建国した文帝・楊堅だと思います。
文帝の皇后は獨孤氏といいます。天下を統一した後、文帝が皇后以外の女性に手を出したところ、それを知った獨孤氏が大激怒しました。後宮には多数の女性がいて、皇帝は子孫を残すために複数の女性と関係を結ぶことが当然とされていた時代ですが、文帝は激怒した獨孤氏に恐れをなして宮城から逃走し、大臣たちの仲介によってやっと玉座に戻った、という話しが伝えられています。
明代の将軍 戚継光は倭寇を撃退した英雄として知られています。
李宗吾は「怕老婆的哲学」の中でこう書いています。
ある人が(李宗吾の説に反対して)こう言った「今は外患がこのように猛威を振るっている(民国時代。西方の列強や日本が中国大陸を侵食していた時代です)。もし更に『怕学(人を恐れるという学説)』を提唱し、恐れるという習慣を養ってしまったら、日本が攻めて来た時、女房を恐れるように日本を恐れてしまう。これでは国が亡んでしまうのではないか。」
李宗吾は戚継光が恐妻家だったことを例に挙げて、こう答えています「(戚継光は)女房を恐れるという習慣を養ってきた。その結果、ひとたび妻を恐れると逆に恐れ驚いて肝を大きくし、後に日本兵(倭寇)が攻めて来た時、抗日の英雄になってしまうとは、誰が予想できただろう。日本は恐るべき相手ではあるが、女房ほど恐ろしいものではない。だから彼は勇敢に戦に出ることができたのだ。」
李宗吾はもう一つ、笑い話のような故事を紹介しています。
唐の時代、黄巣が叛乱したため、朝廷がある者に討伐を命じました。彼の妻は家にいましたが、荷物をまとめて夫に会いに行きました。それを知った男は憂鬱になり、幕僚に相談しました「夫人が南に来ると聞いた。黄巣も北上して来る。どうすればいいか?」
幕僚はこう答えました「あなたのために計を為すなら、黄巣に投降した方がいいでしょう。」
結局、この男は兵が敗れて法に伏すことになりました。
李宗吾は「もし彼に妻を迎え入れる度胸があれば、必ず黄巣に抵抗する度胸もあり、決して失敗することもなかったはずだ」と書いています。
李宗吾は諧謔によって当時の世相を風刺しながら世直しを考えていたようなので、「怕老婆的哲学(妻を恐れることの哲学/恐妻家の哲学)」も半ば冗談で書いた文章だと思います。
また、標題は「怕老婆(妻を恐れる)」ですが、単純に「妻を恐れれば成功する」と言っているのではなく、どちらかというと、「恐いくらいの妻(しっかりした妻)がいる男は成功する」と解釈した方が正しいようです。
清朝が亡んで間もない当時、人々の価値観が変わって儒学を批判する声も上がり始めていましたが、まだまだ「女は男に従うもの」という考え方が濃厚でした(今の中国も日本も、男尊女卑の考えが完全に払拭できているとは言えません)。李宗吾はそういう古い思想から抜けきれない社会に一石を投じたかったのかもしれません。
今回の画像は『三才図絵』から隋文帝です。