青春時代の命日
今日、12年間頼りにしてきた大事なものが、2ヶ月前に跡形もなく消えてしまったことを知った。
今年noteは、書いては消してを繰り返していたけれど、これはどうしても今書かないといけないと感じて急いで書き始めた。
僕の青春期、誰でも簡単にブログが始められるサービスとして一躍有名になったホームページ作成サービス、モバスペ。
今でこそ似たようなサービスが量産されているけれど、当時ガラケー時代には画期的なサービスだった。クラスのみんな、友だち同士で見せ合うためにやってたけど、僕は自分だけの記録用として、そのブログサービスを使っていた。
自分だけしか知らないのに、言葉が汚くなってしまった記事や、特に誰にも悟られたくない本音を書いた記事なんかは、鍵を掛けておいた。そして読み返すときは、その鍵の記事を中心に読み返しながら、過去の本音をなぞっていった。
そうやって、気付けば大学、社会人になっても使い続けた。スマホになって、開く回数はだんだん少なくなっていったけれど、その場所は何だか特別で、しんどい時に時々訪れて記事を更新したり、読み返して懐かしんだり、鬱になった時には何度も励まされた。
*
そんな存在が、突然いなくなっていたことを知った。何年も寄り添った彼女が、この世界から突然姿を消したような喪失感。
「たかが、サービスが終わっただけ」と言う人もいるかもしれない。
でも、僕にとっては、小さい頃から一緒に育ったペットが、突然いなくなってしまう感覚だ。
人に相談することが苦手だった僕は、家族や友だちにも到底話せないこともたくさんたくさん書き込んでいた。
迷った時の自分が、どんな風に苦しんで、どんな風に立ち直ったか。恋に敗れて胸を痛めたことも、友達と分かり合えなかった過去も、心の支えになった当時の彼女への想いも、暗闇に手を差し伸べてくれた光も。
それも全部、泡のように消えてしまった。
何度アクセスしても、短くまとめられたサービス終了の挨拶文表示されない。12年間の魂の込めた言葉たちは跡形もない。
契約が終了したサーバーからデータの復旧なんて絶対に出来ないことは知っている。一度バックアップをとったことがあったけれど、そのデータが入ったUSBは、タイにバックパックに行ったときに失くした。
どうしても事実を認めたくなかった。もうないとわかっているのに、奇跡を信じて、過去のPCやガラケーを全部取り出して、データが残ってないか探してみる。
何を恨んでいいか分からない。
1ヶ月前にサービス終了を案内するのはひどい。でも、気付いたのは2ヶ月後。それほど大事なものをチェックしなかったのは自分だ。そもそもなんで旅にUSBなんか持っていったんだろう。なんでGoogle Driveとかいつもアクセスできるところに入れとかなかったんだろう。なんでもっと早く、バックアップ取り直さなかったんだろう。
いくら嘆いても仕方がないことはわかってる。
どれだけ願っても、「あと一回、読みたい」は届かないのだ。
*
喪失感から立ち直れそうにないけれど、僕は最近ある世の中の真理を感じていた。
・全ての命は有限である
・日々意識できることは、少ししかない
ということ。
「全ての命は有限である」は言うまでもないかもしれない。
歳はとる。寿命は尽きる。
一度失った命は、もう戻らない。
前提として、その命が完全に無に帰するとは思わない。少しスピリチュアルな話だけど、あらゆるものに宿る魂は、それが人であれ、ぬいぐるみや服など物であれ、共に生きた人の中にずっと生き続けると思っている。形を変えて、この世に魂は残ると思っている。僕らが忘れない限り、記憶の中に生き続け、受け継がれていくと思っている。
ただ、それでも、形は変わってしまう。
ある人や魂の、その時のエネルギー感は、その時でしか対峙できない。
つい忘れがちだけれど、それは日常の中でも起きている話。
何気なく歳を重ねているけれど、例えば5年前や10年前の年齢の両親に会うことはできないし、自分自身も、二十歳の頃に戻ることはできない。
高校や大学に通い直すことがたとえできたとしても、感じられることはまるで別物。人生は残念ながら、リロードは出来ない。
これは、俗にいう「人生やり直せない」とは少しニュアンスは違う。人生何度でも転換できるし、世の中では「絶対に出来ない」とされていることだって、願いはある程度叶えられると思っている。もちろん時間がかかったり、100%の状態でかなわないものもあるかもしれないけど、「立て直しが効かない」ということはないと思っている。
でも、立て直しは効いたとしても、リロードは出来ない。日々その瞬間で感じた気持ちは、その時しか感じられないし表現できない。
たとえ、タイムマシーンで過去に旅立てたとしても。
※この感覚を感じたい人はぜひ映画『アバウトタイム~愛おしい時間について~』を見て。
このことは、最近感じている2つ目の真理
日々意識できることは、少ししかない
にも通じている。
日々生きていると、「これは絶対忘れたくない!」と思う気付きや教訓がある。でも、それは日常の中でたくさんあって、次第に薄れていく。
あんなに強く心が動いて、「常に忘れないようにしよう!」と思っても、日が経つうちにどんどんその言葉の背景は削がれていくし、他の大切なことがどんどん増えていく。大切なことをチェックリストにまとめて、毎日たくさん目を通そうとしたって、その一つ一つがより希薄なものになって、今度は目の前のことに敏感でいられなくなる。
残念ながら、大事なものがたくさん増えていくのに、僕らが日々意識できるのは、いつまでたっても数限りある。毎日どれだけ楽しくても、全部は持っていけない。宝物ボックスに入れられるものは、決まって少しだけなんだ。
*
こう考えると、僕が失くしてしまった12年間の記録も、そろそろお別れのタイミングだったのかもしれない。
振り返ることは、今にエネルギーをくれる大切な存在。でも、そればかり大切にしていると、新しい宝物を入れるスペースがなくなってしまう。
感情や気持ちを全てリアルタイムで永久保存して、すぐに取り出せたらいいけれど、そんなの世界中のスーパーコンピューターの性能をかき集めても無理。たとえ出来たとしても、記憶が膨大であるほど、一つ一つの印象が薄くなる。
どう抗おうと、記憶には限界があるし、感情には鮮度がある。ちゃんと日々味わって、時にはサヨナラして、今を生きてかなきゃならない。
だから、今を精一杯生きよう。
そう、それが書きたかった。
いま僕はどうしようもない喪失感がある。これも時間が経てば、きっと少しずつ風化してしまうだろう。これまで当たり前にあった大切なものでも、姿を消してしばらくすると、「あれだけ大事なものだったはずなのに、本当にあったんだっけ」と不安になる気持ちは身に覚えがある。
だから、そうなっても安心できるように。
ちゃんとあったよ、と。
何度も勇気をくれてありがとう、と。
そこに存在して、力をくれたことにちゃんと感謝を送る。
手を合わせて、供養してあげて、明日を生きようと。
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