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 こんにちは。
今回記事の目的は、『2025年1月29日 聖教新聞記事』1部分の保管です。

〈小説『人間革命』起稿60周年――生命の刻印 間断なきペンの闘争〉第13回 精神の正史Ⅳ
次への常勝の金字塔を!
起稿10周年の「4・2」
那覇市にある沖縄国際平和会館の2階ロビーに、一つの机が展示されている。香峯子夫人が小説の口述筆記のために使用した机だ。
 天板の裏には、次のように刻印されている。
 「『人間革命』口述のために
 求めしものなり
 口述を妻 香峯子 書す
 故に 香峯子机と命名せり
 昭和四十九年 四月二日
            大作」
 昭和49年(1974年)は、アメリカとソ連が対立する冷戦下で、世界は核戦争の危機にあった。池田先生は“どんなことがあっても、第3次世界大戦は起こさせない”と、この年、アメリカ、中南米、中国、ソ連を相次ぎ訪問。対話の力で、相互理解の橋を架けた。

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 同年4月1日、先生はアメリカの名門・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言」と題して講演。
この日は、日本時間では4月2日。恩師・戸田先生の祥月命日だった。先生は恩師を胸に、世界に向かって創価の生命哲学の光を放った。
 翌日、サンタモニカのアメリカ本部で、恩師の十七回忌法要を営む。そして、青年部の代表を中心とした参加者に語った。 「先生を知るとは、先生の信心を学び、実践することです。その人の心にこそ、戸田先生がいらっしゃるんです。平和を願い、広宣流布に邁進する、生命の脈動のあるところに、戸田先生の生命が通うのであります」

 この年の7月3日、『人間革命』第9巻「発端」の章の連載が始まった。編集部に届いた原稿の多くが、香峯子夫人の字で記されている。 先生は多忙を極め、疲労が重なった。体調が優れない時は、口述で小説の連載を続けた。香峯子夫人が記した『人間革命』第9巻「発端」の章の原稿。欄外に池田先生の字で、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」とある  魔を破る未聞の革命 50年前の1975年、折からの“石油危機”によって、世界経済は戦後最大の不況に陥っていた。 日本国内でも2月、完全失業者が100万人を突破。また前年12月には、時の首相が金脈問題によって退陣するなど、金権政治への批判が高まっていた。 池田先生は75年の9月13日から、第9巻「展開」の章を連載開始。統一地方選挙に、学会として初めて独自に推薦する候補を擁立した55年を描いた。同章には、支援活動の意義が記されている。 「政治的野心に基づくものではなく、ひとえに民衆の幸福と、社会の平和、繁栄を願う一念より発したものである」 55年は、自民党と社会党による、なれ合いの堕落政治ともいわれる「55年体制」が始まった年である。大多数の庶民が政治から取り残され、さらに、金権政治や選挙での買収も横行していた。 本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治家が、いつの間にか魔性に支配され、民衆を見捨てている――。同章に記されている。 「政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点がある」「魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいる」 一人一人の人間革命によって、権力に潜む魔性を打ち破り、民衆の力で社会をよりよく変革していくことが、創価学会の「立正安国」の運動なのである。 さらに同章で、戸田先生は水滸会の青年たちに、“創価学会の政治革命は、明治維新などとは全く異なる、未聞の革命である”と述べ、こう強調する。 「苦難と労苦と中傷の嵐のなかを、忍耐強く、毅然として進まなければならない。予想もしない大きな難にも遭遇するだろう。その時こそ、固い団結で乗り越え、乗り越えて、進まなければならんのです」 この“未聞の革命”の先駆けが、池田先生と関西の同志が世間を驚嘆させた「大阪の戦い」である。

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関西の友への“手紙”

 「大阪の戦い」が描かれる『人間革命』第10巻の連載が開始されたのは、1977年9月3日。
 「教学の年」と定められたこの年、年頭から全国各地で教学研さんのうねりが起こっていた。関西では、池田先生の関西初訪問から25年を刻み、新たな飛翔が開始されていた。
 第10巻「一念」の章の連載が掲載されると、先生は「関西の友の喜ぶ姿がまぶたに浮かぶようだ」と語った。
 “関西から貧乏と病気を追放したい”との恩師の心を胸に、池田先生は1956年、大阪を舞台に「立正安国」の戦いを展開。第10巻に、「大阪の戦い」に刻まれた精神の一切を書き残した。
 フランス文学者であり、ロマン・ロラン研究の権威である宮本正清氏は、同巻を読んで、次のような感想を述べた。
 「私の最も感動するところは彼ら(戸田城聖と山本伸一)が貧しい人々、民の中に、最も崇高な精神を流布していく『実践』にある」
 「大阪の戦い」の出陣となった地区部長会で、山本伸一は「呵責謗法滅罪抄」の一節を拝した。
 「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり」(新1539・全1132)
 関西の友は、この御文を胸に怒濤の前進を開始。伸一が行った早朝の御書講義は、友に地涌の使命の自覚を促し、不可能を可能にする拡大の推進軸となった。
 第10巻の連載中、本紙の関西・大阪版で掲載された企画「小説『人間革命』とともに」には、「大阪の戦い」を経験した同志の声が紹介されている。
 その中には、「この御書が私の支えとなり、今日まで不退転の信心を貫くことができた」「確信ある一言一言がそれまでの私の迷いを一掃してくれた」など、池田先生の御書講義を人生の原点とした友の声もある。
 「一念」の章で山本伸一は、戦いを開始するに当たって、「強盛な祈り」「最高の作戦、最高の行動」が重要であると訴え、こう強調する。
 「この二つの要諦が調和した時、不可能も可能となり、勝利を得ることができる」「この調和をさせるものは何かというと、それが信心なんです」
 ここに、立正安国の運動の根本がある。「大阪の戦い」が示すのは、「信心根本」「御書根本」こそ、絶対の勝利の方程式ということである。

 「一念」「脈動」の章には、学会精神の根幹である「師弟」についてつづられている。
 「大聖人の仏法が師弟不二の仏法であるならば、一切法がこれ仏法であるがゆえに、立正安国の現実的な展開のなかにも、師弟不二の道が貫かれていくことは、当然の理といわなければならない」(「一念」の章)

 「師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道を、かろうじて全うすることができる。師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である」(「脈動」の章)

 「脈動」の章が連載されていた77年11月27日、大阪で行われた第5回関西幹部総会に、先生はメッセージを寄せた。
 「今、私は昭和31年の当時を小説『人間革命』につづっております。それを皆さん方への手紙と思って、そこから何らかのものをくみ取っていただき、次への常勝の金字塔を打ちたてていってください」「障魔は勢いを増し、波浪は、その険しさを高めております。今、一人ひとりにとって大切なことは何か。それは師子王の勇気であります」
 この77年ごろから、第1次宗門事件が表面化し始める。先生は小説を通して、同志に勇気の光を送り続けていった。

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今回記事内容の著作権は全部、聖教新聞新聞社に御座います。
#SEIKYO #人道主義

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