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クリスチャンだけど教会に行かない理由
お金目当ての「牧師」、聖書を理解してない「自称クリスチャン」に惑わされない!
「教会に行かないとクリスチャン失格!」などとあたかも「教会に行かなければ地獄に落ちる!」とでも言わんばかりに脅す牧師たちがいます。
失礼を承知で言いますが、そんな牧師たちのほぼ99%は献金、つまり信者のお金が目当てと言って過言ではないです。
りこは4年前から教会に行くのをやめました。
理由は本来のクリスチャンとしての生き方をしたいため、変な牧師や変な自称クリスチャンたちと関わりたくないからです。
全ての教会が変とは言ってないし、全ての牧師や信者たちが変と言ってるわけではないです。
これまで数多の教会を見てきましたが、二言目には献金献金という教会は聖書の教えから須く離れていると考えてもおおげさではないです。
そんな牧師たちに「余計なこと言わないで働け!税金払え!」とバシッと言ってやるのもありですが、そのように言うことができる人はそもそも教会に行くかどうか悩むということすらしないはず。
だいたい、一般的な人たちは日々働いて納税しているのです。
いくらリモートワークが最近主流になってきたとはいっても、毎日生活や仕事をする中で疲れるのは至極当たり前のこと。
しかも重い納税つき。
ある意味十分すぎるほどのストレスをかかえている人たちが何の意味があって休日に教会に行き別のストレスを受ける必要があるのでしょうか?
イスラム教で素晴らしい点がいくつか存在します。
そのうちの一つは、コーランの翻訳を認めないという点です。
旧約聖書や新約聖書がさまざまな言語に翻訳されているのは、イスラエルの神こと天のお父様のご計画の一つだと考えられます。
しかしながら本来の意味からかけ離れている翻訳が散見されます。
原語以外で聖書を読むことにより聖書が言おうとしている本質を理解できていない「自称」クリスチャンが生息しています。
そもそも日本には、文字を読むことはできたとしても読解力や言語能力が乏しい人が老若男女問わず多いです。
自分はろくに聖書を読んでいないくせに教会に行かない他の信者を「お前はだめだ!」と攻撃する自称信者が教会にわらわらいる。
さらに牧師は二言目には「献金しろ」とようするに「金払え!」と言い続ける。
仕事をせず納税もしていない教会員たちは忙しく働いている人たちを「そんなに仕事してバカかお前!」と事情も知らず頭ごなしに罵る。
これが昨今の日本のキリスト教会で起きていることです。
こんな状況では、クリスチャンではない人がクリスチャンやキリスト教会を嫌厭してしまうのも致し方ないでしょう。
教会に行くより、聖書を理解し聖書の教えを実践することが優先
イエスは建物としての「教会」に行けなどとは言っていません。
日本の多くの教会においては、はっきり言ってイエスの「互いに愛しあいなさい」という教えを全く守っていません。
それどころか日本の多くの教会は聖書の意味を歪んで理解し結果的に他者を苦しめているばかり。
そんな「自称」クリスチャンたちは「自分は毎週教会に行っているし献金というお布施もしてるから大丈夫」などともはや仏教のようなご利益宗教としてキリスト教をとらえているのです。
要するに「自称」クリスチャンたちの信仰というものは形だけで中身がないのです。
さらに「自称」クリスチャンたちはイエスを見ることすらしていなく、ひたすら目の前の他人を攻撃することに心血を注いでいます。
牧師に関しては自らのことを「先生」と信徒たちに呼ばせている始末。
イエスの言葉を理解したら牧師を先生呼ばわりするべきでないことは一目瞭然。
「あんたらホントに聖書読んでんの?」と聞きたくなります。
旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれたことは言うまでもないことです。
果たしてどれだけの牧師や「自称」クリスチャンが旧約聖書や新約聖書を原語で読んだり聖書を真剣に読んだことがあるのでしょうか。
主に金銭事情など自らの都合や憂さ晴らしのために聖書を利用している人たちが今の日本のキリスト教会を牛耳っています。
ただでさえ宗教にアレルギー反応を示す日本人が、そんな「魅力がなくストレスになるだけの教会」に行きたいなんて思うわけがないでしょう。
とにかく疲れている人や、神様や宗教という言葉に生理的嫌悪感を抱く人に対し闇雲に「神は愛です」「教会に行きましょう」などという形ばかりの「伝道」は無意味だし迷惑に過ぎないと思います。
クリスチャンの言動を目の当たりにした人が、そのクリスチャンを通してイスラエルの神とイエスを見ること。
これこそが究極の伝道とりこは考えています。
「自称」クリスチャンだけが人間ではないです。
悲しむことや涙を流すことは今この世界にいるから起こることであり、この世界の次の世界に行けばアドナーイエロヒームこと天のお父様が悲しみや涙を消してくれます。
今悲しんでいるから、苦しいからこそ互いの痛みがわかり、互いに思いやり大切にしあうことができるのです。
それがイエスの教えにつながるのです。
病人が医者を必要とするように、この世界の人たちはイエスを必要としています。
もし教会に行かなくていいかどうかと悩んでいる人たちがいたら、その人たちのために祈ります。
シャローム!