マルコ8:27∼35「シェガレ神父の説教」
B年間24主日 マルコ8,27-35
ペトロの告白 2024
「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」とイエスの質問に対して弟子たちは、色々な噂があるが、中には死者から生き返った洗礼者ヨハネだとか、あるいは死んだ後に天に上げられ、この世に戻った預言者「エリヤ」だとかいう人がいます。
弟子たちの答えを聞いたイエスは今度彼らに向かって「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うか」と彼らに尋ねます。3年間ほどイエスと付き合った弟子たちは、突然の質問に対して動揺し、黙っています。ペトロだけは確信を込めて「あなたはメシャだ」と答えます。「メシア」はギリシャ語の「キリスト」の訳語であり、元はアラム語で「油注がれた王」を意味します。この王は神から民に派遣され、即位するときに油を注がれ、神の掟に沿って民を導く役目を持つ方です。
ペトロの答えは正解でした。しかしイエスは自分がメシャだということを誰にも言ってはいけないと注意します。当時、ペトロを始め、ほとんどの人の頭の中にあったメシャのイメージは力を振い、神の敵を破り、国の勝利をおさめる方だったが、このイメージは異邦人と罪人を受け入れ、皆の罪を、背追って苦しまなければならないイエスの使命とは全く合わなかったものです。 そのためイエスはわざと、私はメシャだということを言わずに、自分のことを明らかにするときは敢えて自称した「人の子」と言う言葉を使いました。旧約聖書の「人の子」は「神から遣わされた者」だったが、権力者ではなく、謙り、皆に仕え、「苦難のしもべ」を意味していました。それをなかなか分からなかったペトロはイエスをわきへ連れだして、いさめ始めます。しかしイエスは「彼を振り返り、弟子たちを見ながら、サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを厳しく叱かります。
2000年が経ってもイエスは、弟子たちに質問したように、私は誰なのかと、私たちの一人一人に尋ねます。こう聞かれたら私たちは弟子たちと同様に動揺して、多分学んだ公教要理の答えを思い出し、あるいは信仰宣言の言葉を借りて、あなたは神の子キリスト、この世に来られた贖い主だと言うかもしれません。これも正解だが、しかしこのような宣言は頭の知識だけだったら、心が動かず、イエスのやさしさや共感が出てきません。いかなるキリスト論は「上から定められたもの」だと一部の神学者が言っています。これに対して日本を含めたアジアの神学者はイエスの人間性を大切にして、歴史を重んじ、「史的イエス)」「下からのイエス」のアイデンテイテイに関心を示す傾向があります。私は東京の学生センター真生会館にいた時に、学生たちと一緒にイエスについて日本人が書いた本を読書したことがあるが、全ての本の中心視点は「下からの「史的イエス」、つまり「共にいてくださる方」、「人間の友なる同伴者」、「庶民の連帯に生きた人」でした。書いた著者はイエスの温かさ、優しさ、身近さを強調していたのは共通点でした。この視点は多分西洋の境界では足りないと思います
「共にいてくださるイエスの像と対照的に、東方聖教会はイエスの神秘を優先し、イコンを通じて、イエス・キリストの超越性に触れて、祈っているが、やはり彼らのイエスに対する感覚は西洋とは違い、尊いものです。
「あなたがた、わたしのことを何者だと言っているか」と言うイエスの質問に対して、人でありながら神であり、人類の救い主という教義の答えが変わらないが、イエスを見る感覚はそれぞれの文化によってアクセントが違うのは当然でしょう。対話を通じてイエスを見る様々な視点を交換し合っていれば、イエスへの祈りはより豊かなものになれると思います。
私たちは弟子となり、多様な視点からイエスのアイデテイテイを認めても良いが、実践という視点を忘れてはいけません。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。最後のこの短い説にはイエスは知識、完成、神秘感覚だけではなく、人々への奉仕、十字架の受け入れを要求されていると思うが、その勇気と忍耐が私たちに与えられるように祈りたいと思います。