ルカ24:35∼48「シェガレ神父の説教」
B復活3主日 ルカ24,35-48
弟子たちへのイエスの出現 2024 渋川
先週の日曜日に朗読されたヨハネの福音書は復活されたイエスが弟子たちに現れて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶し、手と脇腹の傷を見せて、弟子達が「主を見て喜んだ」と語っていました。
今日同じ出現を語るルカの福音書は筋が多少違っています。イエスが現れ るが、弟子たちは喜ぶではなく恐れおののき、亡霊を見たと思って、うろたえています。そうするとイエスは自分の存在を証明するために手と足を見せます。しかし弟子たちが、「喜びのあまりまだ信じられず」と書いてあるが、不思議がっています。彼らは手と足を見て喜んだが、まだ信じられないのはどうしてでしょうか。
私たちは例えばしばらく家族から離れて家に戻ろうとした時、自分が生きているのを証明したいなら、手と足ではなく、顔を示すのは普通ではないでしょうか。しかし弟子達はもちろんイエスの顔を見て嬉しかったが、それよりイエスの存在感を表す手と足を見て喜びます。福音書にはイエスの手が様々な場で目立つので弟子たちは手のことを忘れていなかったでしょう。触ってはいけないのに勇気を持ってハンセン病の患者の体に触ったイエスの手、子供を祝福していたイエスの手、倒れた人を立ち上がらせたイエスの手、病人の上に手を置いて癒したイエスの手、パンをちぎって分け合ったイエスの手など、イエスの手を見て弟子たちが喜びました。
そして足と関係する話も多い。現代私たちは車ばかり乗っているので歩くことが少なくなり、足のことはあまり意識していません。しかしイエスの時代は移動する時は、足しかなかったです。イエスと一緒にパレスチナの道を歩いていた弟子たちの記憶に浮かんでいたのは、血や埃のついたイエスの足、マリアが香油を流したイエスの足、また最後の晩餐の時にイエスが弟子たちの足を洗ったことなど、イエスの足のイメージが弟子たちの心に残っていたと思います。いずれにせよ弟子たちはイエスの手と足を見た時、イエスが生きていることがわかり、大喜びでした。しかし彼らはまだ信じられていません。弟子たちはその後イエスがパンと魚を持ってもらうように指示し、彼らの前で食べた時、やっとこの人は亡霊ではなく、イエスだと信じ始めました。私たちもミサの時司祭がパンを裂く時にイエスが共にいて生きていることを信じて、「信仰の神秘」と唱えています。
最後にイエスは弟子たちの信仰を支えるため、聖書を思い出させ、人の子が死者の中から復活されるという預言者の言葉を覚えさせた時、彼らの信仰の目が完全に開かれたと書いてあります。
最後にイエスが弟子たちを派遣します。派遣の時と場所は四つの福音書が微妙に違います。ルカとマルコ福音書によるとイエスは復活の翌日の朝、昼、晩に3回ほどエルサレムの家に現れ、 弟子たちを派遣します。そしてその場で弟子達に「エルサレムから始め、 あなたがたはこれらのことの証人となる」と言って、弟子たちを派遣します。それに対してマタイとヨハネの福音書はイエスが2回だけエルサレムに現れたが、3度目にガリラヤ地方に現れ、そこから弟子達を再び派遣します。すなわち弟子たちの派遣は二つの場所で行われたと言えます。最初に2回、中央であるエルサレムに現れ弟子たちを派遣するが、次は一回。辺境の地であるガリラヤから弟子を派遣します。現代、エルサレムの代わりにキリスト教の中央となったローマからイエスは教会を派遣し、ガリラヤのような世界の辺境の地から私たちを派遣します。私たちは中央のローマにいる教皇との繋がりを大切にしながら、渋川という固有の文化を持った辺境の地から派遣され、日本だけではなく、世界の人々に福音の喜びを伝え、復活されたイエスの証人となり、福音を告げ知らせるようなミッションが与えられていることを新たに思い出しましょう。