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第11主日ミサ「シェガレ神父の説教」

A第11主日 
マタイ9,35〜10,8 12 人の派遣 2023

 「イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 
 以上の短い文章に収穫の言葉は3回ほど出ています。この収穫は何を意味するでしょうか。私たちは収穫というと、洗礼や召命の数と思っているかもしれません。しかし神のもたらす収穫は教会の域を超えて広く、数字で数えられないし、タネ蒔きのわざと深い関係があります。福音書が語る神のわざは必ず種蒔きから始まり、種が成長を遂げて実を結び、収穫に終わります。このプロセスの主は神です。神は、世界の人々の心の中に良い種を蒔き続け、その種は良い土に受け入れられたら成長し、実りは聖霊の実である平和、思いやり、信仰と希望、奉仕のこころ、義への渇きなどです。収穫の働き手として派遣されいるわたしたちは、万物の主である神の働きの証人となり、その実を共有し、希望のメッセージを打ちひしがれた群衆に伝えることに任命されています。また足りない収穫の働き手が増えるように祈りを頼まれています。
 収穫の話の後にイエスは名前が出ている12人の使徒を集め、「『天の国が近づいた』ことを宣言し、弟子たちに癒し、悪霊の追い払いなど弟子たちに権能が授かれています。死者を生き返らせることも弟子に与えられた権能の一つです。ここで言われている死者は、生きる意欲や希望を失った人々のことを指しています。派遣された宣教者はやる気を失った人たちに寄り添い、希望を与え、元気づけさせます。
 最後にイエスは宣教に出かける弟子たちに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と注意します。宣教は報いを期待できず、無償な働きです。教皇フランシスコは度々宣教の無性性を強調します。「福音の賜物は売り物ではなく、与える、伝える、知らせるべき宝です。わたしたちは無償でこのたまものを受け、無償で分かち合います。神様は、普遍である教会を通して、すべての人が真理を知り、ご自身のいつくしみを受けることによって救われることを望んでおられます。」
 イエスに派遣され、12人の使徒の巡回宣教を受け継いだ日本の宣教師たちの姿勢に学びたいです。彼らのように私たちは家庭なり、職場なり、学校なり、ことばだけではなく、生き方を通して、福音の希望を伝えるように聖霊の導きを祈りたいと思います。

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