ルカ3:15∼16、21∼22シェガレ神父の説教
C ルカ3,15-16,21-22
主の洗礼 2025 渋川
教会で「受肉」という言葉がよく使われるが、神の子は人間となり、私たちの間にお住みになったという意味です。神の子が、愛情に包まれた家庭に生まれ、親に可愛がられ、シナゴグ学校に通い学び、仲間と一緒に遊び、青春時代に、世界の若者と同様に親に対する反抗期を乗り越えられたはずです。
その後イエスは私たちと同様、大人になって、親から独立し、自分らしく生きていきたいと思って、家を出て、様々な壁とぶつかりながら、自分の辿るべき道は何なのかと悩み、迷いを感じて、成長しました。正義感に燃えていた彼は、外人部隊による故郷の占領、エリートの腐敗、宗教の形骸化、差別と貧困、社会の矛盾を目の当たりにして心が痛み、憤りを覚えたことでしょう。悔い改めを呼びかけていた洗礼者ヨハネの悔い改め運動の噂を聞き、それに共鳴を覚えたようです。ヨハネは社会の様々なゆがみを正すことを主張し、神の裁きが迫って来たと訴えました。イエスは彼の呼びかけに共鳴して、ナザレの故郷を離れ、ヨハネが集めた弟子たちのグループに入り、水による清めの洗礼を受けます。その時、誰も体験したことがない出来事が起こります。 天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られ、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という父なる神の声が聞えました。この声は人を裁くようなものではなく、あわれみ深く恵みに富む神の声であり、人々に希望と勇気を与え、新たな未来を切り開くものでした。イエスはこうした天のメッセージを受け止め、福音を伝えるために自分が遣わされていることを悟りまました。
洗礼を受けた後に、イエスは自分の召命を固めるには洗礼者ヨハネの教団を離れて、山の奥に隠遁し、40日間ほどの断食と祈りをはじめます。そこで富や権力や名誉の誘惑を感じるが、それを退いて、群衆の中に入り、神の義を訴え、自分の辿るべき道を歩み始め、エルサレムではなく北のガリラヤ地方に住む人々、特に目が見えない、耳が聞こえない、律法を守れない、社会から捨てられた弱者の所へとどまり、神の愛を告げ、福音の宣言をはじめます。
今日日本中、成人式が行なわれるが、イエスと同様に心の中で自分の人生をどうするかと迷っている青年が多いでしょう。これからお金、名誉、人気者の道を目指していくか、あるいは皆が希望を感じられる社会作りに貢献し、自分に与えられた才能を活かして社会に役に立つ選択を取るか、迷いながら闘っています。
その時、神はすべての若者に「あなたは私の愛する子」という声が聞こえたら幸いです。その時に彼らはイエスが祈ったように、天の父よ、どうか私の歩むべき道を悟らせて下さいと言えたら幸いです。神に愛されているということがわかった時、人間は誰でも自信を持って希望の力が湧いてきます。
今日この教会に成人式に当たる青年がいなかったけれども、一人一人の若者は天が開かれたことを感じて、あなたは私の愛する子、これから悩みや葛藤があっても私はあなたとともにいるという神の励みの言葉を心に留めておきたいです。元気を出し、精一杯の人生を歩んでいけるように祈っています。