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マルコ福音書10:35∼45シェガレ神父の説教

B 年間29主日
マルコ10,35−45 権力と奉仕  2024 
 
 兄弟だった二人の弟子、ヤコブとヨハネはイエスに近づき「先生、お願いすることをかなえていただきたいですが」と口を慎みながら質問します。イエスは「何をしてほしいのか」と言われると二人は「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願っています。
 この願いを聞いて多分イエスはうんざりしたと思います。以前はイエスが3回ほど自分の受難のことを予告していたのに、二人の弟子の願いはあまりにも無神経だったからです。彼らは栄光を受けることしか頭になく、自分たちの利益だけを考えていました。イエスは忍耐を持って、彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていないのか。このわたしが飲む杯を飲み、洗礼を受けるべきことを知らないのか」と問い返します。イエスにとっては「飲む盃」が喜びのものどころか、苦しみのはずです。話しを脱線しますが聖書の言う「飲む盃」は日本語の「苦杯を喫する」という表現に似ています。歌謡曲には酒と泪が度々結びつけられていて興味深い。十数年前日本と海外で、永井裕子さんの「」という歌が流行っていて、中には「酒のしずくはなみだの味」と言う節があったが、このことばは 全世界の人の心に響きました。もちろんイエスが飲むべき盃は恋の涙ではなく、受難の孤独や十字架の涙です。またイエスの受けるべき「洗礼」はめでたいだけではなく、水に沈み死んでしまい、死を通らなければ復活の栄光に与ることはありません。 
 イエスは、私の盃を飲み、洗礼を受けることが「できるか」という質問に対して、二人の弟子は「はい」できると自信を見せて答えます。イエスは彼らの決意をうけ入れるが、右と左に座ることは自分たちの決めることではないと言います。ところが二人の願いを聞いた10人の弟子は腹を立てます。あの二人は自分たちだけの出世を目指し、いい席を取るしか考えず、他の仲間を無視しているからです。弟子達の間に争いが始まったことに気づいたイエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言い切って、宣教は奉仕の心が一番大事なものだと教えます。 
 残念ながら過去において教会はたびたびこのイエスの言葉を忘れ、たびたび政治権力との融着関係を築き、人々の上に権力を乱用し、キリスト教の真理を押し付ける時代がありました。ヨーロッパからアジアに派遣された150年前の一部の宣教師は当時のカトリックのメンタリテイーの影響を受け、カトリックの真理は絶対であり、教会以外には救いがないと、人を脅していたことは事実です。幸いに現場に触れることによって彼らの態度が変わり、、目の前にいる貧しい人に寄り添い、心が変えられ、人々に仕えるようになったと言えます。過去の反省に立って、第二バチカン公会議は貧しい人と共に奉仕する教会という方向を求め、刷新の具体化を求めました。教会は善意がある世界の人々と一緒に権力ではなく人と共に歩む教会を目指し、福音に戻ろうと努力しました。教会共同体の私たちも真理の証は、自分たちの正当性の主張であってはなりません。上から目線で人に教えたり、考え方が違う人を排除したりするのでもなく、人に寄り添い、謙虚な心を持って、仕えるのは教会のあるべき姿です。このバチカン公会議のもたらした方向は大きな変化だったが、教会の中でもまだ十分に理解されず、実践の努力はこれから必要です。
 現代社会の人々の心を動かすのは、立派な教えや組織力ではなく、具体的な奉仕です。私たちは福音の心に動かされ、他者に心を開き、目立たない小さな奉仕を通して、本物の宣教者になれるように祈りたいと思います。

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