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ルカ5:1∼11シェガレ神父の説教

C 年間5主日
ルカ5,1-11 大漁 渋川2025

今日の福音は漁の話しが出てきます。日本は海に囲まれていて、みなさんも光景に対して親近感を感じるでしょう。しかし海はいつも変化があり、漁師の生活は安定しないし、漁は天候に左右され、船が陸地にとどまったり、漁師が網を洗ったり、修繕したりします。晴れると沖に出て漁をします。福音書はこうした漁の話が多くあって、海の匂いがします。
今日の話の場所は小さい町ゲネザレトの湖畔で、群衆に押し寄せられたたイエスが動けないので、シモンの 船を借りて、説教壇として利用し、群衆に向かって教えます。初代教会の時にペトロの船は教会の象徴となり、必ず三つの重要な要素があります。建物と説教壇、そして生きた共同体の網です。
建物は集まりと祈りの場所で安全な港の象徴です。だが、いつもイエスは建物の中に閉じこもらず、沖に出かけて行き、宣教の網を下すように私たちに呼びかけます。「沖」は教皇様がいつも言うように社会のペリフェリー(境界線)であり、行く途中で、教会が波風に揺り動かされても、出かけて進まなければなりません。教会に集まる私たちは「沖に行って網を下ろし、漁をしなさい」というイエスの声に十分に耳を傾けているでしょうか。 
時々私たちはシモンのように「先生、夜通し苦労したが何も取れませんでした」と文句を言って、網を下ろすのを諦めるかもしれません。無事安全の港にとどまり、網を洗った後に押し入れに閉まう誘惑に陥ります。しかしこの誘惑を乗り越えて、シモンのように「主よ、お言葉だから、網を下ろします」といえたら幸いです。もちろんこの網は個人の一本釣りではなく、共同体の網です。皆が一致してその網を下ろす意思があれば、漁の主である神から力や勇気が与えられます。
今日の話しは恐れた弟子たちがその勇気を持ってイエスの命令通りに網を下ろしたが、予想外の大漁で大いに驚きました。二そうの舟を魚でいっぱいになり、舟は沈みそうになって他の仲間に援助を求めました。同じエピソードを記すヨハネの福音書は船だけではなく、網も破れそうになったと書いてあります。普通は魚が一杯過ぎたら様々な分裂が起こりする危険があり得たが、修繕の方法は和解、励まし、互いのゆるし合いです。
今日の福音の終わりにイエスは漁師に向かって派遣の言葉を述べています。「これからあなた方は魚ではなく人を獲るのだ」と。
人を捕るというこの言葉の意味は誤解されやすいでしょう。獲るとは決して奪い取るあるいは勧誘する意味ではありません。原文のギリシャ語は「生け捕りにする」という特別な言葉が使われています。宣教は諸悪の象徴である海の深みから人々を生け取りにして、神の交わりに導く大切なわざです。
「沖に出ていき、網を下ろしなさい。」この言葉は主に遣わされた私たち一人一人に語りかけられているはずです。どうか私たちは教会の網を下ろす勇気や元気が与えられますように祈りたいと思います。

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