マルコ7:31∼37「シェガレ神父の説教」
B年間23主日 マルコ7,31−37
エッファタ 2021-24-2
人々は長い旅からガリラヤ湖に戻ってきたイエスのもとに, 耳が聞こえず, 舌が回らない人を連れてきて、その人に手を置くようとイエスに願います。聞こえず話せない人は他者とのコミュニケーションは全くできず、自分の苦しみさえ訴えられず、中風の癒し物語(マルコ2,3-12)の人と同様、完全に受け身になって、名前もなく、全てにおいて周りの人々の哀れみに頼っていました。
イエスは耳と舌が回らない人を連れてくれた人々の信仰を見て感動し、すぐに彼らの願いに応えて、当時の治療師の動作をして、指をその両耳に差し入れ、手で唾をつけ、聞こえない人の舌に触ります。そして、天を仰いで溜息をつき、その人に向かって「エッファタ」(開け)と声を出して言います。すると、この人はたちまち耳が聞こえ、舌のもつれが解け、はっきりした話しをするようになったと書いてあります。
イエスは、耳と口だけではなく、沈黙の中に閉じこもっていた障がい者の全身全霊に向かってエッファタ」(開け)の言葉をかけて、この人とのコミュニケーションを取り戻し、癒したと思います。
現代は耳や口が正常であっても、心を中々開けない多くの人がいます。デジタルの技術のおかげでコミュニケーションの道具方法が著しく発達したのに、どうしてみんなの意思疎通が困難であり、社会の「閉塞感」は感じられるのでしょうか。閉塞という言葉は「閉じて」「塞がる」と書きます。閉塞感とは出口が塞がれて、気分が行き詰まって、先へ進めない、どうしようもない状態です。どうして多くの人は自由や楽な生活を享受しながらも、自分のカラに閉じこもり、中々心を開かず、社会と積極的に関われないでしょうか。イエスは今も、昔と同様に、わたしたちの社会、または教会の閉じられた部分に向かってエッファタ「開け」と言葉を言い続けて、無関心と沈黙の闇から私たちを解放し、喜びの交わりに導いてくれることを祈ります。
エッファタという言葉はて当時の公用語のヘブライ語ではなく、福音書で一度だけしか出ないアラム語であって、庶民の言葉で、開きなさいという意味だが、きっとイエスの周りにいた人々の心に響いてきたと思います。そのため今日のエピソードを記るすマルコ福音家はこの言葉をそのまま訳しないでそのまま残したと言われます。
今日の癒し物語に登場する人物はイエスを虐めていた律法学者やファリサイ派の人と対照的に、イエスに対して好意を持った普通の「人々」です。彼らは多分近所の人々であって、前から目と耳の障がいを持つ人に寄り添っていたと思います。癒しの後に彼らはイエスに対して「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と、イエスのわざをたたえて喜んでいます。信者ではないが心が開かれたこの人々が幸いに日本の社会をはじめ世界中にたくさんいること自体は希望のしるしです。
教会にこそエッファタの言葉が響く場所のはずです。イエスは教会に来る一人一人に向かって、また私たちの共同体に向かって「エッファタ」、「開け」という言葉を投げかけ続けています。この言葉を受け止めることによって私たちは心の閉鎖性から癒され、様々な囚われから解放され、外に向かって積極的に社会と教会に関わり、真の自由、福音の喜びを社会の中で証できるでしょう。
最後になるが、先週のパリパラオリンピックで懸命に頑張って参加した世界の障碍者たちからも、多くのことを教えられました。障碍者と「ともに生きる人たち」としての自覚と協力の心を育てていきたいものです。