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マルコ福音書10:2∼16「シェガレ神父の説教」

B 27年間主日 マルコ10,2-16 
離縁 渋川 2024

 今日の聖書に出る「離縁」は、私たちが持っている離婚のイメージとは違って、夫が一方的に妻を追い出すことです。当時離縁の正当性について意見が一致していなかったので、ファリザイ派の人々は「夫が妻を離縁することは律法に叶っているかどうか」とイエスを試して質問します。イエスはモーセがあなた方に何を命じたか」と問い返すと、多分ファリザイ派の人々は旧約聖書(申命記24、1)を引用し「夫が妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせてもいい」と答えたでしょう。男性優位の考え方でした。イエスは「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と述べて、創世記のある有名な箇所を引用し「天地の初めから神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と答えます。男と女は同意に基づいて結びつき、一体となるのは神の望みだということ。国によって婚姻制度のあり方が多少異なっても、神の望みは変わらず、神が結びついた男と女の絆は解消できません。だから夫は勝手な離縁状を妻に渡すのはできないということです。 
 日本語の離縁は養子縁組に適合する言葉のようで、意味は旧約聖書の「離縁」と混同しがちだが、夫が妻に離縁状を渡し、いわゆる「追い出し離婚」と同じで、妻は簡単に捨てられていた意味です。離縁(離婚)の理由は女性が世継ぎの男子を生めない、姦通、姑に充分に仕えないことなどでした。しかし江戸時代に夫の暴力を避けたい女性は駆け込み寺に逃げ、三年間お寺の修業に従えば、家族とそれぞれの関係を断絶して、自由になったそうです(縁切り)。女性にはこうした逃げ場があったからこそ、少し救われたでしょう。
 現代日本では妻の一方的な追い出しが廃止され、その代わりに民法上の離婚が認められてきました。離婚は二人の同意に基づく制度なので、昔の追い出しより女性の人権が守られているが、その反面離婚は簡単になりすぎて、離婚率は高まってきました。90年代の「成田離婚」の言葉が流行った時期を覚えているが、今は離婚率より、結婚率が大幅な減少に伴い、出生率の減少は社会問題となりました。この状況の中で教会は時代に逆らって、神が結び合わせた男と女の絆が解消できないと教え続け、他の人と再婚できない立場を取っているが、これは多くの人にとって中々理解されていません。しかしそうであっても皆が心の中で神の祝福と幸せな結婚を祈り、子供を産み、愛、平等、尊敬、支え合い、安定した家庭を作りたいでしょう。関係を見直す和解の知恵、忍耐の恵みが、夫婦の皆に与えられるように祈ります。
 しかし関係が直りそうもない非常に苦しい結婚の行き詰まりが起こるのは事実です。相手の不倫と暴力のため一緒にいるのは耐えられなくなることがあります。ローマ教皇フランシスコは数年まえの演説の中、家庭の問題に触れて、「家庭内の両親の不和が子供たちの魂に取り返しのつかない傷を残すだけで、夫婦間の喧嘩の最大の被害者は子供だ」と警戒していました。そして「時には夫婦の別居はやむを得ない場合、別居していても愛し合うことができれば幸い」という励ましの言葉を述べています。そして離婚に追い込まれている夫婦を教会から排除しないように、彼らが共同体の中に受けいれられるべきことを訴えています。
 今日の福音の終わりイエスは親が連れてきた子供を抱きしめて祝福し、周りの人に子供のように神の国を受け入れなさいと言います。イエスはいつも子供の視点に立って社会を見て、結婚を始め、世界の幸せを望んでいます。私たちも子供の幸せを優先して、神に与えられた結婚の恵みを大切にし、結婚の意味を理解しない現代社会の中で福音を伝えると同時に、結婚の失敗のために苦しんでいる人々に共感を示し、彼らが教会の中に暖かく迎え入れられるように祈りたいと思います。

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