マルコ福音書9:38∼48「シェガレ神父の説教」
B年間26主日 マルコ9,38・48
逆らわない者は、私の味方 2024
今日の福音の箇所はもともとバラバラだった三つの話しが繋がれました。一つ目はいわゆる宗派競争に関する問題です。使徒ヨハネがイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとした」と言います。しかしイエスは癒しと悪魔祓いは自分たちのグループの特権ではなく、イエスの名を使って他のグループの活動も認めるべきだとヨハネの心の狭さを批判し、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とはっきり述べます。宗教は違っても同じ目的を目指すなら、相手の活動を拒否してはいけません。
狭い仲間意識への誘惑はどの教会にでも見られ、カトリック同士が集まり他の宗教と交流しない傾向があります。しかし宗教宗派の名前が違っても福音に逆らわない人は敵ではなく、味方として見なすべきとイエスが主張しています。私事ですが、日本に来た時にたびたび、福音に関心を持つ無神論者や仏教の坊さんとの交流と活動を共にしたことがあります。特に彼らと平和の運動を一緒に参加した時、いつの間にか、何かしらの尊敬の気持ちと親近感をもって、私たちは同じ心があることを感じて、協力の関係が深まっていました。イエスが勧めた、逆らわない人の前向きの協力は本当にありがたいです。
今日の福音の二つ目の話は、小さき人を躓かせる人の罪をテーマとして取り上げます。躓きはギリシャ語のスカンダロン(英語のscandal)で、直訳すると「石に躓く」、「引っ掛かる罠」を意味します。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きなを首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とイエスが言っています。文脈からすると「小さき人々」は、子供だけではなく、躓きやすい者、誘われたら抵抗ができない、いじめに巻き込まれやすい傾向がある者です。現代社会の中で躓き、罠が至る所に多いです。例えばインターネットの怪しいサイト、SNSの甘い誘いなど。残念ながら教会内にも躓きがありえて、いやらしい行動、相手を傷つける中傷などがあります。今最も許せないのは今全世界に話題になっている児童虐待です。イエスがこうして罠に掛かる小さき人々のことを守って欲しいです。
第三の話のテーマも躓きだが、意味が多少違って「あなたをつまずかせる片方の手、片方の足、片方の目」が躓きの原因です。正確な意味はよくわからないが、イエスは自分の片手、片足、片目はあなたをつまずかせるならそれを切ったり、えぐり出したりして捨てなさいと警告します。目に関してマタイの福音書(Mt5、28)を読むと、目を躓かせるのは目に映る情欲にあり、姦淫の罪を引き起こすものです。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と書いてあります。結局躓かせる人は両手と両足も、また両目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一本の手と一本の足、一本の目になっても神の国に入り、神のみに目を向けて、この世の様々な執着や情欲を切って、捨てた技ほうが薦められています。
今日の朗読箇所は躓きと地獄の言葉がよく出て、その厳しさを感じます。特に「地獄ではが尽きることも、火が消えることもない」という最後の節は恐ろしく感じます。多分この節は後に付け加えられたと聖書学者が言っているが、イエスの発言の厳しさを無視することはできません。私たちの生活を振り返り、手と足と目にある躓きは何なのか、一人一人が自問すればどうでしょうか。皆さんはこれについて意見があれば是非分かち合っていただきたいと思います!