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マルコ福音書13:33~37「シェガレ神父の説教」

B待降節第1主日 
マルコ13,33−37 目を覚まして 
渋川 2023

イエスは4回ほど弟子たちに「目を覚ましていなさい」と注意を呼びかけます。現代の私たちにもイエスが同じことを言っていると思います。 目を覚ますことは目に見えるものに身も心も捕らわれないで、確かなもの、決して滅びないものに心の目をしっかりと向けなさいというこの呼びかけは聖書によく出ています。
 そして「その時がいつなのか、あなたがたには分からない」とイエスは言い切っているが、今日は譬え話では僕たちに家の安全を任せた主人の帰りの時です。その時は別なところでは神の訪ずれやキリストの来臨の時と言われて、いつ起こるか誰もわからない神の時です。なんでもわかり、将来のことを予測できる大型コンピューターや人工知能(IA)でさえ神様の時を知ることはできません。人間にとってその時は一番重要な時であるとイエスが他の福音の箇所で主張します。その時は神の愛と貧しい兄弟に共感を示さなかった人にとって滅びの時となり、神の慈しみを信じた人にとっては恵み、喜び、復活、永遠の命の門となります。だれもその時は分からないが、それでもイエスがその時を見逃さないように私たちの注意を促しています。 
今日イエスは、日常生活の日程と共に生き、心の居眠りに陥りがちな私たちに何度も「目を覚ましていなさい」「立っていきなさい」「警戒しなさい」と言い続けます。もちろん私たちは人間に決められた社会や教会の日程を守らないと生活は成り立てません。しかし日程の時よりも、神の定めた時は私たちにとって決定的な時であります。その時をいつ来るか知らなくても、いつでもこの時を受け入れる用意を持つように、イエスが訴えています。
 神の時は死だと思われる人が多いかもしれません。自分の死の時は予想できないからでしょう。死は突然やって来て、神のお呼びだと受け止められために、危篤の病者は神に全てを委ね、天国に行けるように皆と一緒に祈ります。この死に方はもちろん今でも素晴らしいでしょう。しかしこの頃人間の体の中に自然な体内時計があると言われるので、死は仕方がないと諦めて、自分の死の時はある程度に推測できます。また医学の進歩のおかげで自分の死の時を周りの人と相談して選ばれます。教会は安楽死を認めないが、命の尊重という観点から、尊厳死を認め、回復の見込みのない患者の家族が過剰な医療処置を拒否でき、苦痛緩和の道を選択した結果、死期が早まります。この場合の死は神の時の無視でも、殺害でもなく、命を尊重であり、自然に委ねられた死に方の優先です。
いずれにしても聖書の中の神の時は、個々人の死より、誰も予測できない宇宙規模の出来事であり、最後の審判の日で、またはキリストに結ばれた人の体の復活の日です。神を信じている人は自分の人生をかけて、その日を受け入れるための準備が必要です。終わりの日は誰もわからないからこそ、私たちは常に目を覚まし、時のしるしを見逃してはいけません。そのため時のしるしを読み取り、主の招きに応えられるように心の用意をしなさいとイエスが主張しています。
待降節の時期こそ緊張感を持って主の訪れの時を迎え入れる用意を持つようにできることを祈りたいです。これは今日私たちに与えられている福音のメッセージではないかと思います。

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