マタイ福音書16:21∼27
A 年間22 マタイ16、21-27
受難予告 2023 渋川
さっき受難の予告を聞きました。イエスは長老、祭司長、律法学者、つまり国のエリートから苦しめられ、そして殺され、三日目に復活することを弟子たちに予告します。イエスは最後まで父である神への従順を貫き、受難の道を選び、十字架に向かって歩んで行く決意を明らかにします。
しかし弟子たちはイエスの受難の予告を理解できませんでした。そして信仰告白したばかりのペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と異議を唱えます。彼は他の弟子たちと同様に、来るメシャは栄光に輝き、勝利を収める方だと思っていました。しかしイエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者だ」と言い返します。前も荒れ野で誘惑された時にイエスは「サタン、退け」と同じ言葉を使っていました。サタンは神から人を引き離そうとする悪魔のことで、その力が私たちの心の中でも働いています。イエスはペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことしか思っていない」と、彼を厳しく咎めます。
受難の予告の直後にイエスは「私について来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と言って、弟子になる条件をつけます。
自分を捨てることは一体どういうことでしょうか。日本語の自己放棄や自己否定とは意味が多少違います。群馬県の前橋で活躍した明治時代の知識人、無教会の教会を創設した内村鑑三は、一生この言葉の意味を探り「自分を捨てるというのは、自分が作り上げた自分を捨てることだと主張していました。つまりキリストの弟子は、自分中心の生き方を捨てて、福音中心の生き方を選びます。ヨハネ(15、13)は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とさらにその意味を深めています。イエスに従う弟子は十字架を背負い、愛を持って自分の命を捧げます。
続いてイエスは「自分の命を救いたいと思う者はそれを失い、私のために命を失うものはそれを得る」と述べ、捨てるではなく失うという別な動詞を使います。命を失うとはどういうことでしょうか。もちろん自殺、また集団自決のようなことではありません。江戸時代では、踏み絵を踏むか踏まないかと苦しい選択を迫られたキリシタンはイエスのこの言葉をどう捉えたでしょうか。踏み絵を踏まなかったら皆が殉教し命を失います。逆に踏み絵を踏めば命が助かるが、イエスと先祖の信仰を裏切ることになり、魂が救われません。多くのキリシタンは、悩んだ結果、第三の道を取ったと思われます。長崎周辺にいた彼らのほとんどは、五島列島を始め他の島に行く方を選びました。そうすることによって、彼らは命の支えである家や畑を失ったが、神への信仰を守り、子孫にそれを伝えることができたわけです。これは当時のキリシタンの知恵だったと思います。今時代が違うが、私たちは一体、いざとなった時に、キリシタンのように、自分の持ち物を失っても、イエスに従うのを選ぶか、あるいは信仰を捨てて命を支える財産を守るのを選ぶか、どっちの道を選んだらいいかについて、しばらく考え、自分の生き方を反省したいと思います。