マタイ福音書22:1~14「シェガレ神父の説教」
A年間28主日 マタイ22,1−14
婚宴への招き 渋川 2023
さっき婚宴の喩えを聞きました。そこに出る王は神ですが、王子はイエスです。婚宴は日本語の披露宴にあたるが、神がイスラエルの民と契約を結んだ宴の場であり、天の国の象徴です。イエスはカナの婚礼のような祝いに招待されたら喜んで参加し、地元の人々と一緒に交流し喜びを分かち合っていました。
イスラエルの婚宴・婚礼は、とても楽しいお祝いでした。お嫁さんの女友達は行列を作って、手を叩き、歌を歌ったり、踊ったりしながら、婚宴の場所まで婿さんの家に向かって出会い、皆が婚宴の部屋に入り、詩篇の朗読と司祭の祝福を受けた後、ワインと小羊の肉を飲み食べ、会話でワイワイ盛り上がっていました。
しかし神が用意した婚宴に、招待された人々から参加を断られています。断られた理由は忙しさです。ある人は畑の仕事があって今行かないと収穫に間に合いません。もう一人は急いでお店に行かないとお客さんを待たせて困ります。喩え話の人々は自分たちの仕事ばかりに気が捕われていて、皆と一緒にお祝いする意欲がないということです。
現代人の私たちも、競争社会の中でますます忙しくなってきて、余裕のない生き方をしています。皆と一緒にお祝いなどに誘われていても、疲れていて、お祭りに参加するほどの元気がなく孤独です。ある調査によると結婚を決め、籍を入れても、式や披露宴をしない人、つまり自分の喜びを分かち合おうとしない人が増えています。葬儀の時も人は集まらず、皆と一緒に悲しみを共有しようとしません。忙しいとか、面倒臭いとか、そのためのお金を使いたくないとか色々の理由をあげられているが、ほとんどは口実です。こういた良い伝統の滅亡は非常に寂しいです。お祭りやお祝いはコミュニケーションの活性化のために重要な文化です。これがないと皆がバラバラとなり、喜びも共感も湧いてこないです。天の国の婚宴の予兆であるミサも同じです。神様はミサを通して、単なる儀式ではなく、孤独の寂しさから私たちを救いたいです。ミサの時にお祭り気分と喜びを味わい、皆の心が響き合うところ、皆が兄弟姉妹であることを実感し、元気が与えられ、天の国が近づいたことが感じさせられます。神様は何も強制しない、ミサのことを信者の義務だとかお努めだとかと言っていません。神の招きは義務ではなく、お誘いです。一人一人から自由で積極的な答えが期待されています。
もちろんお祝いはミサだけではありません。地域社会のお祭り、家庭のお祝いも大事です。休みを取り、ゆっくり友達と会う時間を作るのもそうです。パソコンを放っておき、家族と一緒に食事をして団欒の時間を楽しみ、誕生日をお祝いするのは素晴らしいことです。教会の行事にも参加するなど、小さな世俗的なイベントを通して、私たちは神様の招きに応えられます。神様はもうこの世に始まった天の国に人が一杯来るのを望んでいます。皆が国の国境と枠を超えて、いい人でも悪い人でも、日本人でも外国人でも、この婚宴に招かれています。それは今日の話の締めくくりです。「家来たちは、通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」と書いてあります。このことこそ神様の望みであり、私たち達の希望と喜びとなります。
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