ヨハネによる福音12:20∼33「シェガレ神父の説教」
B四旬節5主日 ヨハネ12,20-33
一粒の麦 2024
一年に一回行われる過ぎ越しの祭りを祝うため、イエスはエルサレムに登っていきました。彼はもうすでに十字架に付けられ死ぬことを覚悟しています。ところが礼拝のために来ていた群衆の中にギリシャ人が入っていました。ギリシャ人は議論が好きで、いろんな宗教の知恵に興味があり、イエスの新しい教えに関心を持っていました。彼らは弟子たちに依頼して、イエスに会わせてもいたいと願います。
弟子たちはギリシャ人の願いをイエスに伝えるが、イエスがそれを断っているようです。ギリシャ人は自分たちの文化は、他の文化に比べて、高いと思って、十字架の話には違和感をもっていることをイエスがわかっていたからです。ギリシャ人は、日本もそうだが、十字架が敗北の象徴であり、救いどころか恥ずべき死に方だと思っていました。彼らの思いを知っていたイエスは十字架の意味を説明してもギリシャ人には理解してもらえないと思って、彼らに会わないことにします。
代わりにイエスの派遣の意味をまだ理解していなかった弟子たちを集めて、十字架の意味を悟らせるために、一つのたとえ話を用います。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」農業社会に生まれ育った弟子にとってこの譬え話は理解しやすかったものです。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままで残り、実を持ちえません。しかし土の中に落ちて、その殻を破れば、初めて種の中にある潜在的な力を発揮し、同時に土の中にある養分や水分が吸い上げられ、豊かな実を結び、他の麦とつながり育っていきます。人間は自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのであれば、実りが少ないが、自らの殻を壊し、神と人とのつながりに生きようとすれば実り豊かな人生が送れます。イエスの一生はまさに地に落ちる一粒の麦のように豊なみのりを得るものです。
私たちもイエスにならって人のために自分を犠牲にして、他者のために命を捧げれば、目に見えないが大きなつながりの中にある永遠の命に蘇られ、多くの実を結ぶような生き方に招かれています
400年前に迫害を受けた時、信仰を守って日本の地に倒れた多くの日本の殉教者はこのような生き方を示し、今の教会は彼らの犠牲の上に成り立っています。また一粒の麦のような生き方を選んだ代々の宣教師たちも信徒も日本の土に倒れて教会の復興に貢献できました。現代犠牲という言葉が流行らないし、犠牲よりも安楽の道を選ぶ人が増えているかもしれないが、私たちは一粒の麦という言葉の意味をもう一度噛み締めて、イエスとともに十字架を背負って、人類の救いに貢献できる人生を送る決意を改めて深めたいと思います。