復活節第3主日ミサ「シェガレ神父の説教」
A復活祭第3主日
ルカ24,13−35 エマオの弟子
渋川教会 2023
エマオに向かって歩む二人の弟子の話し合いが暗いです。あのイエスは世の中を救う力強いメッシャのはずだったのに、死刑されていなくなりました。彼に託していた全ての望みが裏切られ, 国は相変わらずローマ軍に占領され、何も変わりません。あの方に期待をかけていたのにと二人が嘆きます。二人の心境は、希望を失った時の私たちの落ち込みに似ているでしょう。平和を祈り続けていたのに世界の紛争が相次いでいる、一致を求めたのに皆がバラバラとなり、教会に尽くしたのに信者の高齢化、若者離れ、活動の低迷が目立ちます。自分自身の信仰の持ち方を振り返ってみても、たびたび同じ過ちに陥り、無力を感じ、喜びは湧いてきません。一部の人は昔がよかったのにと呟き、明日への希望ないです。これはまさにエマオに向かった二人の弟子の心持ちであり、また元気が湧いてこない時の私たちの心境かもしれません。教皇フランシスコはたびたび、現代の病気である悲観主義は教会にも浸透し、多くのキリスト者の信仰は悔い改めの四旬節の段階に止まり、復活まで至っていないとか、信者の顔が暗いから福音の喜びが外の人に伝わらないと警鐘を鳴らしています。
ところが、こうして語り合っているエマオの二人の弟子に「イエスが近づいて、一緒に歩き始められたた」と書いてあります。イエスが二人の話し合いを中断せずに、そっと加わるわけです。そして何気なく質問します。「やり取りしているその話は何のことですか」と。二人はイエスの死刑など、話題になった最近の出来事を知らないのかと言うが、主は「物わかりが悪く、心が鈍く、何もわかっていないあなたたちよ」と二人を叱って、聖書の光で出来事の意味を理解し、励まします。
今日も2000年前と同じ、呼応より暗い話題を話し合ったりする私たちの間にイエスはそっと加わり、共に歩いて下さいます。そしてイエスは落ち込んでいる私たちに問いかけます。いったいあなたたちは私の弟子なのにどうして暗い表情になり、建設的な話をしないのか。そしてイエスは、エマオの弟子を咎めたように、愛情を込めて私たちの不信仰をしかって、聖書の言葉を思い出させ、その意味を悟らせます。暗い話題だけに関心を向けず、この世にある神の働きを信じ、希望のしるしを見分けるように私たちを迫ります。共に歩いている復活のイエスは嘆きごとを言うより、神を信じている周りの人々の輝き、希望を諦めず平和を語る人々の勇気、環境問題へ関わる若者の情熱、家族を大切にする大勢のお母さんやお父さんの献身的な生き方に目を向けなさいと訴え、現実にある神の働きに気づかせて、悲観的な気分から私たちを解放し、元気と希望を与えてくださいます。
イエスと一緒に歩き、共に食事した時心が燃えていた二人の弟子は、その後どうなったかは聖書が言っていないが、きっと彼らは多くの仲間と自分たちの信仰と希望の体験を分かち合っていたでしょう。この分かち合いは信仰の証しとなり、初代教会の土台となりました。そして今、毎週の日曜日に聖書を聞き、救いの出来事を思い出され、パンを配られる私たちは、復活されたキリストのわざを思い出し、元気づけられ、社会のなかに派遣されています。現代落ち込んで、意欲を失った人々に希望と元気を与えるのは教会の一番重要な任命でしょう。大震災が起こった数年前の、仙台教区の司教の訴えは今でも印象に残ります。「壊滅的なダメージを受けた仙台教区は司祭の数も非常に少ないし、洗礼の数が伸びず、無力さを感じるが、「それでも教会は復活されたキリストに派遣されていることを感じています。私たちは力の及ぶかぎり広い被災地と被災した人々を視野に置き、彼らを励まし、支え、寄り添う教会であることを目指します」。そして「大震災は悲惨な面だけではなく、連帯のきっかけであり、教会にとって差し出すチャンスである」と前向きな姿勢を訴えました。
恵まれている埼玉の教会に所属している私たちも、悲観的な話題ばかりに耳を傾けることなく、復活されたキリストの力を信じ、前向きとなり、教会をより福音的な場になるように積極的に、創造的な発想を持って共に歩んでいけたら幸い。私たちは孤独ではなく、共に歩んで下さる復活のイエスに支えられ、み言葉の意味を悟り、聖霊が私たちの心に吹き出されていることを信じていきたいと思います。
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