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年間・第22主日ミサ:シェガレ神父の説教

年間主日22 ルカ14,1,7-14 渋川教会 2022 上席と末席

今日の福音書に人々と一緒に食事を楽しむイエスの姿がよく見られます。イエスは人の所属や地位と関係なく金持ちや貧乏人の家に入り、食事を食べ、人々に福音を告げています。
 今日の箇所は安息日の日で、ファリサイ派の議員の家に入ったイエスは、客の動きに関心の目を向けます。彼らはできるだけ自分や血が目立つような上席を選ぼうとしています。他の福音の箇所でもファリサイ派の人々は「会堂で上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」(マタイ23、7−8)と書いてあります。彼らの虚栄心に気づいたイエスがあなたたちは上席を辞め、末席を選べばどうだと非難しています。イエスの言う末席とは、身分や地位の低い、社会の中で相手にされていない、何もお返しできない人々の席だが、イエスは、この世で末席の人々と一緒に座った人こそ、天国の宴会に招待された時は神である主人が彼らを上席に案内し、そこは安心してゆっくりと天国の交わりを楽しめると言います。 
 席の選び方に関するイエスの教えは、他の教えと同様にわたしたちの常識を揺さぶります。普通だと食事の席の選び方は各国のエチケットによって決められます。日本の習慣だと、一番偉い人は上席が案内され、他の人は自由に気の合う仲間のところに席を選ぶでしょう。この件に関して数年前、わたしは辛い体験の一つを思い出します。ある教会の研修会に講話を頼まれたが、講話が終わった後、だれかが、近くのレストランに行って一緒に食べようと提案しました。皆がそれに同意して近所の食堂に入りました。講師であったわたしは、まん中にある一番いい席が案内されたが、他の人は仲間同士のグループに固まってしまい、楽しいおしゃべりをしていました。しかしわたしの席の前と右と左は誰も座らなかったので、どうしようもない孤独を覚えました。考えてみるどこの国でもよくあることです。
 しかしイエスの判断からするとこうした仲間同士の固まりは問題ではないでしょうか。いつも気の合う仲間の席を選んだら、自分の世界が狭くなり、豊かな交流は得られないからです。食事のパーテイなどの時にできればいろいろな人と付き合うのは一番いいでしょう。教会も同じです。気が合う人々だけの共同体になってはいけません。教会はいろいろ身分や出身が違った人の集まりで、互いに受け入れ合い、多様性の上の一致を目指しています。教会は、人々が争って上席を目指す集まりでも、気が合う人々の仲良しグループでもあってはなりません。
 今日の福音書の終わりには人を招待したい時に、どんな人に声をかけたらいいかについてイエスの話が続きます。わたしたちは人を招待する時にやはり仲の良い人、あるいは何かお返しできる人を選ぶのは常識かもしれません。しかしそれなら宴会の場は似たような人だけに占められ、排他的で、閉ざされた交わりの場となるおそれがあります。 
 ところが神の国の宴会の先取りである教会のミサに来る私たちは皆が神様の招待を受けて、上席も末席もないはずです。昔のヨロッパの教会に存在していた貴族専用の席はなくなって良かったと思います。言葉と国籍が違っても、互いに受け入れ合うのはイエス様の望みです。教会は皆に開かれた神の家、誰でも招待されています。多くの教会は誰でも入っていいと看板を立てながら、知らない人が入ってみたら、その人にだれも声がかけられず、閉ざされた仲よしグレープになりがちです。こういうふうにならないように、福音的な意味の開かれた教会を一緒に作られたら、素晴らしいと思います

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