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ヨハネによる福音6:24~35「シェガレ神父の説教」

B年間18主日 ヨハネ6,24-35
いのちのパンの問答 渋川 2024 

今日の福音は先週の「パンの増加」の続きで、イエスと弟子たちは船に乗って宣教拠点のカファナウムに戻ります。「パンの増加」の場所に残っていた群衆は、消えたイエスと弟子たちを探しています。皆がまるで隠れん坊をするかのようです!やがて群衆はイエスを見つけて「先生いつ、ここにおいでになったのか」と質問します。 
 群衆の人々はイエスの手からもう一度パンを配られ、満腹感を味わいたいのです。しかしイエスは彼らに「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と答えます 
今日の福音書は群衆との話し合いは問答となっているが。群衆の質問とイエスの応答が噛み合いません。パンに関する群衆の質問に対して、イエスは話の論点を変えて「永遠の命のパン」について答えます。続いて群衆が、私たちはどんなわざを行い、どんなしるしを信じればいいかと質問するが、イエスは必ず論点をずらして彼らがもう少し深く考えさせるようにしています。
 問答というと、教会の中は要理問答の方法があります。質問に対して洗礼を受けたい人は入門書に書いてある答えを覚え、何も考えなくても、それを暗記すればいいのです。例えば「神はどんな方ですか」という質問に「神は全能全知で完全な方だ」という決まった答えを暗記しました!しかしイエスの問答は違います。イエスはいつも議論の論点をずらして応答し、福音の教えを相手により深く悟らせます。イエスが使うこうした問答の方法はある意味で日本の禅問答に似ています。老師は弟子の疑問に対して、直接に答えずわかったような、わからないような公案を出し、弟子が自分の力で考え、悟りへの道が開かれるわけです。今日の福音の箇所はそれと同じで、イエスは群衆の人々が期待していた答えを与えず、視点を変えて、命のパンなどの神秘を悟らせます。
 イエスがこうした問答を通して永遠の命に至るパンとは何と教えます。「 神のパンは、天から降って来て、世にいのちを与えるものです」とイエスが言いたいのです。 もっと具体的に言えばいのちのパンは天からくる神の知恵であり、またミサの典礼に出ているが、「万物の造り主である神からいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、いのちの糧です」と言えます。そして捧げられた労働の実りであるパンが神に祝福され、イエスの命と体とされ、聖体拝領の時、皆に配られている共同体一致のパンです。ご聖体を食べることによって私たちが神の恵みを受け、元気になり、心身共に豊かになります。 
 残念ながらいのちのパンの素晴らしい教えを信者ではない現代の人にとって通じ難く、わかりやすい言葉で伝えられるのは教会の課題です。5年前に亡くなった岡田司教様の次の言葉を思い出します。「わたしたちの宣教は、よく分からない難しい言葉で言っても、生きることの意味について深刻に悩む人には響かないでしょう。わたしたちは、信仰の言葉を本当に心でしっかり受け止めて、そして信じて、人に伝えているだろうか、あるいは実行しているだろうか」。岡田司教の問いかけに答えていけたら幸いです。

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