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待降節第3主日○シェガレ神父の説教

A 待降節第3主日 マタイ11、2−11 喜びの日曜日 2022 渋川

 「来るべき方はあなたでしょうか」と、前に群衆に向かって「わたしよりも優れておられる方が来る」と言い、その後逮捕され、牢に入れられて、イエスの噂を聞いていたヨハネが尋ねます。彼の質問の中に戸惑いが感じられます。イエスの到来に大きな期待を寄せていた彼は、自分が裏切られたと感じたでしょうか。ヨハネが期待していたメシャは良き知らせではなく罰ばかりの予告をし、「良い実を結ばない木をことごとく切り倒し、手に箕をもって脱穀場をすみずみまで綺麗にする」過激的な方でした。しかしいつも喜びを感じさせ、罪人に対して寛容を示すイエスの態度はヨハネが抱いていたメシャのイメージには全く合いませんでした。二人が別れた後にイエスは評判の悪い人と付き合い、弱い人の過ちを咎めるどころか、彼らを励まし、希望を与えています。ヨハネは娼婦、徴税人、律法を守らない人に対して優しさを示すイエスはメシャであるはずがないと、動揺を隠すことはできません。来るべき方は本当にこの人なのか!
 私たちも時々洗礼者ヨハネと同じようにイエスの行動と言葉に躓くことがあるかもしれません。罪びとや悪い人を相手にしてくれたイエスは果たしてこの世を救える真の救い主であろうかと躊躇っています。 
 実は昔の教会の中の一部の人は、洗礼者ヨハネと同様に、強いメシャを求め、神の名のもとに暴力を振るい、異教徒や罪人と見做される人の消滅を目指し、宗教裁判所と十字軍の聖戦を行いました。現代も、God bless Americaのスローガンのもとに人種差別を行う白人至上主義、アッラーの神の名の元に偶像崇拝者をやっつけようとするイスラム主義、不良と呼ばれるウクライナ兄弟の皆殺しに加担するロシャ聖教会のような、様々な宗教運動が過激化して、社会の浄化を目指し、地上から悪人を抹消する復讐の神、権威的な教会を求めています。
 強いメシャを期待していた洗礼者ヨハネの疑問に対して、イエスは希望と喜びを告げる福音のわざに注意を向けるように訴えます。目が見えていなかった人が見え、耳が聞こえていなかった人が聞こえ、やる気を失っていた人が立ち直り、恨みに囚われていた人が憎しみから解放され、金持ちは財産を分け合っている、近づいてきた神の国のしるしを見なさいとイエスが主張します。人々と裁きの目ではなく、期待をもって共に歩き、成長を祈り、誰の中にも、回心への可能性が潜んでいるのを信じなさいと言うのはイエスの教えです。宣教に派遣されたイエスの弟子たちは、回心の強制ではなく、誰にも良いこころがあることを見出し、人を支え、励ますべきです。
 洗礼者ヨハネからイエスのところに派遣された弟子たちはイエスの答えを伝えたが、ヨハネ自身の疑問は溶けたかどうかがわかりません。その後、彼の弟子たちはイエスの弟子と関係を断ち切って、教会を拒否し、別なグループとなったと聖書の専門家が言います。
 しかしイエスは、旧約の世界に属していて、ご自分に躓いた洗礼者ヨハネを責めるのを控え、むしろ彼を褒めています。彼の心にある信仰の熱意、揺るがない正義感を評価して、彼は旧約の中でもっとも偉大な預言者だと言っています。
 真の預言者は自分の信念を曲げずに、勇気を持っていうべきことを言い、慈しみに満ちた神の義に生きる人です。また彼らは時のしるしを読み取りながら時代を先取りして神の救いの到来を告げ、希望を与える人です。教会にとって、人類にとって、こうした預言者の存在は貴重なものです。私たちはヨハネと同様に預言的な証を示し、福音の喜びを伝え、ゆるしと共感を重んじて、クリスマスに生まれる救い主の誕生を、喜びをもって、迎える心が与えられるよう祈りたいです。

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