見出し画像

4月3日(日)四旬節・第5主日「シェガレ神父様の説教」

C 四旬節5 ヨハネ8,1−11 渋川 2022 姦通の女

今日の福音の箇所は姦通の罪のために死刑を宣告された女性を救うイエスの深い憐れみと優しさを語っています。
律法学者たちやファリサイ派の男達はこの女性をイエスの下に連れてきて、中央に立たせ、「この女」をモーセの教えるように石を投げて殺して良いかとイエスを試しています。当時の律法の教えでは姦通の罪を犯した女は厳しい罰を命じられていたが、相手の男性の責任は問われませんでした。現在でもイスラムの国ではシャリアと呼ばれている同じような法が定められているが、日本をはじめ、ほとんどの国では姦通罪を犯した女性を罰するこんな不平等な法は廃止されました。しかし女性に対する差別はなくなったわけではありません。女性の地位が向上され、男女平等に関する意識は高まっても、依然として男尊女卑の空気が残り、家庭内暴力、セクハラが増えていて、女性より男性の浮気に対する世間の目が甘いものです。しかも不倫の女に石は投げかられないが、インターネットなどを通して侮辱や誹謗の言葉が投げかけられます。また集団暴行をうけたりする事件が多く報道されています。人間は集団になるとその集団の感情やイデオロギーに動かされて、残酷なことをやります。個人として優しい人でも、集団に加われば、差別者や虐待者になることがあります。
 今日の福音に出ている律法学者とファリサイ派の人々はイデオロギー化していた律法主義に支配される集団を成していました。一人だと立派で敬虔な人のように見えるが、集団になると、弱い立場にある人を虐め、考え方が違う人に石を投げかけ、殺してもいいと思っています。
 今日ウクライナ事件を始め、ファリサイ派の律法主義に似た民族浄化というイデオロギーは世界に広がっています。数十年前民族浄化の名の下にナチスによるユダ人の虐殺やカンボジャのクメール・ルージュの皆殺しが行われたが、今はロシアのプーチン大統領はロシア正教会の支えを得ながら、ウクライナの「浄化」を戦争の大義名分にして、「ならず者」や「麻薬常習者」と一方的に決めつけられた人々の皆殺しを続けています。残念ながらかつてのカトリック教会も異端者の排除や魔法狩りを行い、教会内の浄化運動を進めていた時代がありました。どの時代でも、浄化のイデオロギーに支配され、自分たちの考え方は絶対だと信じ込み、人を裁いたり、いじめたりする人たちがいます。もしかしたら私も時々そのような一人となるかもしれません。
 イエスは、女性を引っ張ってきたファリサイ派や律法学者の挑発に対して真っ向から対抗せずに、地面に何かを書きはじめます。そして言います「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」と。イエスは集団ではなく、一人一人の人の良心に訴えています。そうすると一人一人が自分の罪に気づかされ、グループのイデオロギーから解放され、自分の本心に立ち返り、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまったと福音書が記します。今まで集団の主義に動かされて、自分の判断が絶対正しいと思い込んで、女性を殺そうと思っていたが、イエスの言葉を聞いた一人一人が自分の心の中にある偽善性に気付かされて、恥ずかしくなり立ち去っています。ある意味で彼らも救われたと言えます
 女の人が一人となってイエスの眼差しに出会っています。彼女はイエスの眼差しの中に排除や裁きではなく、赦しと励ましがあるのを感じて、初めて神のいつくしみを体験します。「安心しなさい。もう罪を犯さないで行きなさい。」女性は罪の重荷から解放され、どれほど幸せだったかと思います。彼女はいつくしみの福音を体験しました。
 一昨日教皇フランシスコはマルタを訪問していた時、ウクライナの悲劇を念頭に「今日人類に必要なのは憎悪をもたらす、また平凡な人々の知恵を無視するようなイデオロギー的なビジョンやポピュリズムではなく、共感と互いの配慮だ」と訴えました。この言葉は今のウクライナの悲惨的な状況に当てはまると思います。
 イデオロギーに支配され、他人を非難する私たちが、自分達の心の中にある偽善に気付かされ、集団暴力ではなく、イエスの思いやりに習い、神のいつくしみと赦しを体験できるよう、共に回心の恵みを願いたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!