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「推し活」という言葉が嫌いになる時がある

 先日TSUTAYA SHIBUYAで開催されていた「超推し活展」。人気フリマサイトメルカリで出会える約1,000点のモノを通して、昭和平成令和に至るまでの推しカルチャーを体感できる展示イベントだ。

ちょうどCDを買いに行った時に展示を少し拝見したが、まだ「推し活」という言葉がなかった昭和から現在に至るまで、「好きなもの・好きな人」を必死に追いかけてきた人々の思いをメルカリに出品された思い出の品々に載せた、サービス特性を活かした展示だな〜。と眺めていた。


 施策のメッセージは伝わったものの、私がこの展示の名前を初めて見た時の感想は「また推し活かよ」である。この感想を抱いている方も多いのではないだろうか。今回は約20年所謂「推し活」に従事してきた私が近頃よく考える「推し活、もういいよ」話について話してみようと思う。



そもそもいつから「推し活」って生まれた?

 現代でこそ当たり前に使われる「推し活」「推し」という言葉だが、昭和や平成中期までは「推し」という言葉にあまり馴染みがなかったように思う。こういったものの語源を辿るのは難しいが、女性アイドルの現場で自分が贔屓にするメンバーのことを指して「○○推し」と呼ぶ文化には、私が中高生の時にも出会ったことがある。

 それからAKB48の国民的人気の追い風を受け、名曲「チームB推し」からさらに「推し」と言う言葉は広く知れ渡り、やがてそれがジャンルの垣根を越え、2021年にはユーキャン新語・流行語大賞で「推し活」がノミネートされることになった。といったところだろうか。

 ここまでを総括し、「推し」「推し活」という言葉は平成中後期に広がり、令和に世の中ごととなった文化だと想定して話を進める。


推し活が生まれる前、我々は異星人だった

 推し活を令和の文化だと仮定したところで、平成、昭和の時代に目を向ける。

 私がアイドルの応援を始めたのは2005年だが、その頃は世はまさに「アキバブーム」であった。テレビドラマ電車男の大ヒットもあり、「オタク(ヲタク)」というものが少しずつ市民権を得始めた頃だと思う。

 無論、オタクという言葉は今でも残っている。「ファン」に比べ、熱量の高い人々を指す言葉だ。

 現代を生きるオタクに比べ、「平成のオタク」は、その熱狂度合いから、未確認生物のような目を向けられることも少なくはなかったように思う。オタクでない人々の平均的な支出グラフには存在しない「自分が熱中するものへの投資」や、平均的なタイムラインには存在しない「自分が好きなものにのめり込む時間」に対して、どちらかといえばマイナスの感情を向けられることの方が多かった。

 ちなみに気になって知り合いの推し活従事30年以上のオタクの先輩(光GENJIのファン)に話を聞いてみたところ、もちろん昭和の時代にも推しなんて言葉はなく、オリキ・オキラ・オキニなど界隈内の専門用語で語ることが多かったとのこと。昭和の時代は平成よりもっと閉塞的な空間であったのかもしれない。

 そんな昭和・平成を経て「何かに熱中する人々のかっこよさ・眩しさ」に少しずつスポットライトが当たり始め、現在の「推し活」に至るわけだ。


「推し活」という言葉のメリット

 推し活という言葉が広く知れ渡ったことにより、私個人としてはメリットもデメリットも享受してきたように感じる。

 なかでも私が1番得したことは「世間からの眼差しの変化」である。中高生の4人に1人は推し活従事者?!という調査データや、テレビでの推し活特集などを経て、「何かに熱狂する人は割と世の中に多いらしい」という新たな空気感が作られた。これによって、「アイドルが好き」「地方遠征に行くので有給を取る」といったことが、昔に比べるとずっと受け入れられやすくなったと思う。

 少し話を逸らしてマーケットに目を向けると、推し活グッズというものもずいぶん増えてきた。かつては自分なりにカスタマイズして利便性を突き詰めてきた地方遠征用のバッグや収納グッズなどが、うちわやフィギュアの規格に合わせて作られるようになった。これはこれで便利な時代になったな、と思える。(もっとも、最近は交換用ホワイトボードなるものが発売されるなど「それは自分でもできるだろ」といったものも見られるようになったが。)

 このように、推し活人口という新たな尺度が与えられたことで、企業側も「推し活」を取り上げることが増えてきた。


「推し活」という言葉が私にもたらしたデメリット

 ここからはデメリットの話になるが、結論から述べると「推し活」が固定概念化しているように感じる、という話だ。

 例えば、私の好きなアイドルのメンバーカラーは水色だ。そんな私の私物は下記のような見た目をしている。

私物の一部

 私のような人がみなさんの周りにもいることだろう。

 そんな人々を見かけた各企業のマーケターは「うちにあるカラバリ豊富な商品を推し活と絡めて売りましょう!」などと口にする。その結果、今私のSNS広告は「推し活にぴったり!」とうたった生活用品や家電などが目白押しだ。

 はっきりと申し上げると、私はそのような広告に惹かれたことは一度もない。言い換えるなら、私は「推し活」を謳わないiPhoneの水色モデルを自分から「探して」買っている。

 ここが今日お話ししたい、「安易に推し活を謳うとかえって不信感に繋がる」話だ。


推し活従事者には譲れないアイデンティティがある

 先ほどの例えを用いると、私は水色のものが欲しければ「スマホケース 水色」「花瓶 スカイブルー」などと探す。その検索ワード候補に推し活など存在しない。このように、推し活に従事する人は、自分が「推し活」をしているという認識が薄いと考えている。

 世間的に見て推し活を楽しむ人は「何かに熱中して」「グッズを買いイベントに行き」「人生を捧げてる」ような固定概念があるように感じている。その固定概念の中に、メンバーカラーを身につける、だの、とにかく全国に飛び回るだの、大枚を叩く、のようなイメージもあるかもしれない。ただ当の本人たちは「自分の好きな人やモノを自分なりの方法で追いかけている」だけなのだ。

 この歪みにより先述の「推し活と謳うカラバリ豊富な製品の広告」や今から述べる「推し活ハラスメント」のようなものが生まれてきていると私は考える。

 職場で趣味の話をした時、こんな会話になったことのある人はいるだろうか。

-趣味とかあるの?
「好きなアイドルがいます!」
-あぁ、推し活だ!じゃあめっちゃCDとか買ったりするんだ?
「あ、いや私はあんまりCDとかは買わなくて...」
-へーそうなんだ、なんかコンサートとか行きまくってるの?
「あ、この前初めて行きました!」
-なんかおんなじ公演何回も行ったりするんでしょ?すごいねー
「ははは..(まぁそういう人もいるけどさー...)」

 私はこのようなやり取りを幾度となく繰り返し、心の中で推し活ハラスメントと呼んでいる。この会話のズレこそまさしく「推し活」という言葉が知れ渡りすぎたが故の固定概念が起因していると考える。

 同じものが好きでも、グッズを買う人買わない人、現場(ライブやコンサートやイベント)にとにかく行きたい人やオンラインのコンテンツで満足な人、ビジュアルとして可愛い推しが好きな人・カッコいい推しが好きな人・・・・。それぞれがそれぞれの解像度で「推し」を愛し、それぞれの尺度で「推し」を楽しむ活動をしているが、それらを一括りにされた瞬間に、「推し活」というものにどっと疲れてしまうのだ。

 企業の商品やプロモーション施策も同様である。自分たちが好きな人や好きなものを応援する気持ちを企業側に搾取されていると感じた瞬間、「素敵な商品をありがとう」「起用してくれてありがとう」の影に「推し活って言ったら売れるとでも思ってんのか」「オタクの足元見やがって」の気持ちが生まれてしまうのだ。

 ここまで見てくれた方はお気づきだろう。オタク(推し活従事者)とはかなりめんどくさい生き物なのである。


正しい意味での「推し活」が理解される社会がいいな

 自分の好きなものを自分なりに表現したい人がいる。「推し活」は絶対的なルールがないからこそ、楽しく、魅力があり、これだけ熱狂を産んでいるものなのだ。

 そんな方を相手にする「推し活マーケティング」に足を踏み入れている方、踏み入れようとしている方は、どうか注意をしてほしい。その施策に「推し活従事者」が納得する意味付けや背景がなければ、賞賛や成果を呼ぶどころか「金儲けのために安直に推し活を取り入れ、オタクの足元を見る企業」と思われてしまいかねない。

 カラバリが豊富な商品はカラバリが豊富!だけ教えてくれればいい。私が推しの色を探すから。ぬいぐるみやアクスタを入れるのにぴったり!は寸法と使用イメージがわかればいい。誰かが見つけて口コミで広まるから。一人一人が自分なりの推し活を探す、そんな楽しさが残されていれば、これからも楽しく推し活に従事続けられると思う。

 そして自分がよくわからないからと、推し活の過剰な側面を取り上げ、偏見を持つ人が減ったらいいなと願う。テレビや事件で取り上げられる過激な推し活が固定概念化しすぎてしまうと、その言葉はポジティブな意味をなさなくなるだろうな、とすら思う。


 めんどくさい生き物が市民権を得る時代、これからも推し活従事者はめんどくさくあり続けるだろう。だからこそ大事に扱え、というだけではなく、だからこそほっといてくれという部分もあるかもしれない。

 私はそんなめんどくさい生き物がもっと増えてほしいな、と思う。現在推し活従事者ではない方も、「推し」に出会えたらいいな。現代の推し活は趣味の延長だ。何かに熱狂できる楽しさや自分なりのこだわりを突き詰める楽しさが、多くの人に伝わってほしい。

 一人一人が伸び伸びと推し活ができる時代がこれからも続きますように。


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