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【語学】理屈っぽい人の落とし穴

こんにちは!
外国語勉強には、文法や語法をきちんと学ぶ「理論派」と、ネイティブの話す会話や書いた文章を読んで自然に言語を身に着けていく「感覚派」という、大きく分けて2つの流派があります。

そして、「文法は学ぶべきか?」だったり「文法など気にせずたくさんインプットすれば身に着くのか?」を争点にして議論が起きることがしばしば。

私は理屈をこねてばかりの「理論派」に属していますが、ゴリゴリの原理主義者というより、「バランスが大事なんじゃないかな」という、よく言えば穏健派、悪く言えばいい加減でどっちつかずの立場にあります。

語学学習は山登りに似ています。
(山に登らないくせにこの比喩を使っています)
要は、学習者という名の登山者の目指す目標は誰もが「登頂」であり、山頂に到達するためのルートや手段は人それぞれで良い、ということです。

なので、「理論か感覚か?」という議論自体、私はあまり本質的ではないと思っています。ルートが違えど、登れれば良いんです、登れれば。

今回は「理論派」の語学学習者が気を付けるべき点を中心に書いていこうと思います。

理論派の利点は何か。
それは、言語の中にある(らしい)法則を探し、それを基に効率的に言語を学ぼうとする姿勢です。
一見雑然としたものの中に法則を見出そうとする飽くなき探求心は、人類が太古の昔から受け継いできた、進歩のための原動力なのかもしれません。

実際、理論、語学で言うと文法や語法に当たるものを重視するやり方は効率的でもあります。

理論を学ばずに法則を見出そうとするのは、数学の公式を勉強せずに方程式を解くようなもの。
既に先人が発見し、一般的に広く受け入れられている規則があるのなら、勉強してしまったほうが効率的です。
だって、一般法則を見つけられる人は、100年に何人現れるか分からないほど少ないのですから。

この点で、理屈で語学を学ぶ人たちは、学んだ知識を応用することに長けていると思います。

学んだ1つのことを100のことに応用できるのは、とても効率が良い。

感覚派の言う「赤ちゃんのときは文法なんか勉強せず、周りの人の言葉を聞いて言葉を身に着けてきたんだから」という主張に私が首を傾げるのは、「赤ちゃんにできるのだから大人の自分にはもっとできる」という含みがあるためです。

新しい言語の受容力は年とともに衰えていくものだと私は考えているので、むしろ赤ちゃんは私たちなどその足元にも及ばない大先輩で、彼らにできることが私たちにも当然できると考えるのは畏れ多いにもほどがあります。

力が衰えてしまった大人の私たちは、規則性を学習することでショートカットを目指すしかないのです。

昔の自分に出来て、今の自分には出来なくなったことなんて、他にも色々あるものじゃないですか・・・。

そして、感覚派のもう1つの弱点は、間違えて身に着けてしまった癖を修正できないことです。

ネイティブの使用する言語を聴いて読んで学んできた人たちは、その場その場で理論派がびっくりするような自然な表現を使うことができますが、

一方で、間違えて覚えてしまった単語や表現は、何が間違いなのかになかなか気づけず、そのまま使い続けてしまいます。

さらに「通じるから良いでしょう?」という人であったり、幸か不幸か周りが全く修正してくれない人たちばかりであれば、その間違いはいつまで経っても直りません。

これが、感覚派の人の頭打ちの原因となるのです。

その点、理論派は法則・規則を身に着けているので、自分で軌道修正することができます。
さらに、法則を適用することで、触れてこなかった表現も自ら作り出すことができるのです。

ただ、ここで理論派が陥る落とし穴がいくつかあります。

「法則が何にでも通用すると思ってしまう」

言語は人間という、必ずしも合理的ではない存在が生み出し使用しているものなので、100%通用する法則は(ほぼ)存在しません。

そのため、前言を翻すようですが、ただ法則に従って作りだした文が必ずしも正しいとは限らないのです。

「文法的には正しいけどネイティブはそう言わない」というアレです。

そのため、法則一辺倒になると、長い目で見ると遠回り。
法則を覚えつつ、現実の使用例にたくさん触れることで、様々な「変形」や「法則崩し」を学び受け入れていく柔軟性が必要となります。

「何でもクリアにならないと前に進めない」

これでは本末転倒です。

言語は人間が生み出したものなのに、その全てを法則によって説明できないものですし、実は全ての法則が理解できなくても、私たちの頭は新しい言語を使うことができるようになっています。

つまり、普遍妥当な法則や説明を全て見つけよう!というのは、やり過ぎで、エネルギーの無駄遣いでもあるのです。

なので、語学学習において、「何でこうなるんだろう?」という疑問を抱き、与えられた説明が腑に落ちなかったとしたら、

取りあえず「分からなかった」ということでそのトピックは寝かしておくことをおススメします。

知識と経験が増えるにつれて、いつか思いがけない瞬間に点と点が線で繋がって、意味がハッと分かるときが来るからです。

あるいは、そんな劇的な瞬間が来なくても、案外数か月後には何の疑問も持たずに使えていることだってあるのです。

そう、語学学習において目指すべき山は「使えるようになること」であって、「謎の解明」ではないのです。
そういうのは専門家に任せましょう。

これと似ているもので、ネイティブに質問するときも、明確な答えを求めないことをおススメします。

ネイティブだって、いやネイティブだからこそ、自分の母語について理論立てて説明することには慣れていませんし、いきなりの質問に窮して思いついた答えが、広く一般に使えるような説明ではなくて当たり前です。

ですので、ネイティブからの説明に対して反論したり、果ては論破しようとするのはもってのほかです。論破しても何も得るものがありません。たとえ議論に勝てても、勝負には負けています(そういう議論が好きなネイティブの方とならどんどんやっても大丈夫ですが)。

それよりも大事なのは、「私の表現にネイティブが違和感を抱いた」という気づきです。

違和感の内容を的確に言語化できる人はネイティブの中でもそうそういませんが、「何か、変」という感覚はネイティブに広く共有されています

つまり、ネイティブが、「何でかは上手く説明できないけれど、何かその言い方はおかしい気がする」と言ってきたら、それを貴重なフィードバックとして受け取るべきなのです。

ここが理論派の弱いところ。
理論派は理屈で説明しようとするあまり、自分でも新たな仮説を立てたり、反証を出したり、そういうのが大好きですからね。
ただそれは、語学学習の本質ではありません。

一方、「ネイティブがこう言うんだから、こう言うの!」という説明は私はあまり好きではありません。

それで割り切れるなら一番効率が良いのですが、
それは食事で言うと生で全部食べられる人みたいな感じです。

規則や法則を覚え、それを使用するのは、
食材を切ったり熱したりと手を加えて調理するのに似ています。
調理したほうが食材は食べやすく消化しやすくなるのと同様、
色々説明を受けたほうが理解もしやすくなります。

理解が充分できないことを「消化不良」に例えるのもまさにその通りですね。

やはり、バランスが大事なのだと思います。

ただ、火を通さないと食べられない人でも、ものによっては生でも行ける食材もあるのと同様、語学でも全てを規則で説明する必要もないですし、逆に全てを丸のみする必要もないのです。

理論派の方は何でも詰めないと気が済まない真面目な人が多いと思うので、「与えられた説明に充分納得できなくても言語使用には支障はない」ことを肝に銘じておくと良いと思います。

何なら、言語に習熟すればするほど、言葉で説明できなくなるものってたくさん出てきますからね。なのに、話せるし、使えている。不思議です。語学が座学とスポーツの両面を備えているせいかもしれません。

最後に、もう1つ。

文法用語マニアにならないこと!

これも理論派の人が陥りがちだと思います。

文法用語は、あくまでも説明をスムーズにするために使う道具だと思ってください。

「過去形」や「冠詞」っていう言葉がないと、「動作を表す言葉の後ろに-edとかが付くやつ」「モノやコトを表す言葉の前についている『a』みたいなやつ」と、説明がとにかくまどろっこしくなるんです。

自動車を運転する際に最低限必要な部位の名前などと同じくらいの立ち位置です。

本当に正しく的確な文法用語を使いこなすのは、これも専門家に任せましょう。

逆に言えば、「文法なんて意味がない」という「感覚急進派」の方々も、コミュニケーションを円滑にする共通語だと思って最低限の文法用語は覚えて置くことをおススメします。

私は自分で法則を見つけられるほどの頭脳がないので、やはり文法や規則を勉強してから実地に飛び込みたいタイプですが、かといって文法用語や言語学的な議論にハマってしまわないように気を付けています。

以上、長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございます!

【画像】hayyansさま(Pixabay)

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