受験英語マインドから脱するために
前回の記事では、受験英語が語学としての英語学習に与える「負の遺産」について書きました。
記事では「減点思考」や「正誤判定」という言葉を使いましたが、言い換えると「正しさへの拘り」と「間違うことへの恐れ」です。
受験英語は、語弊を恐れずに言えば、人生を賭けて人と争う点取り競争の種目の1つに過ぎません。
語学学習とは、そもそもそのアプローチからして異なります。
しかし、日本人の多くの方にとって、受験英語の学習が「語学学習」の原体験になっていることは確かです。語学学習と言えば受験英語を思い出し、ある人は嫌な気持ちになり、ある人は受験英語マインドのままで語学学習に突っ走ってしまうことでしょう。
今回は、どうすれば受験英語的なやり方から脱出できるかを、自分の経験を基に書いていきたいと思います。
単語を丸暗記しない
私は単語帳を持っていません。
ただ、過去の記事にも書いている通り、単語帳を作っても続かないことは、私の悩みでもあります。
以前に書いていた「Ankiを使った学習法」も、その後は不調が続いています。
が、振り返ってみると、私の語彙力が格段に上がったのは、単語帳を作らなくなって以降でした。
単語学習と言うと、受験英語の時のように、市販の単語帳を買ったり、自作の単語ノートを作ったりして暗記するイメージを持たれると思います。
ただ、ここで話しているのは、「自分のために単語を覚えるなら、単語帳を使った暗記は必ずしも必要ない」ということです。
受験英語の場合、単語を覚えるのは自分のため、と言うよりも、正確には試験に受かるため。ということは、試験に出てくるような単語を頭に叩き込むわけです。
つまり、受験英語においては、自分が本当に必要としている単語、自分本位の表現を覚えるわけではない、ということなんですよね。
語学学習においては、共に学ぶ仲間はいるとしても、競争相手はいません。
単語を覚えるのに、〆切だってありません。
語学試験も、それ自体はあくまで目的達成の手段に過ぎません。
語学学習は一生続くものです。
究極的な目標は「自分が表現したいことを自由に表現できるようになる」ですので、自分で好きな単語を好きなように覚えていけば良いわけです。
言い換えれば、覚える単語も、覚えるスピードも、全部自分のペースで良いわけです。そのため、私は、単語帳を作って無理やり頭に叩き込むよりも、大量のインプットを通じて、同じ単語や表現を様々な文脈や場面で目にし耳にしていくことで、自然と身に着けていくことをおススメします。
一見、遠回りに見えるかもしれませんが、自分本位で覚えていった方が、語彙は定着しやすいし、いつの間にか語彙力が上がっていたりしますよ。
学ぶ文法は「今の自分に必要か」を基準に選ぶ
英文法は可哀想だと個人的に思います。
英文法自身は何も悪くないのに、学校英語でさんざん叩き込まれるせいで、「文法は不要だ」だの悪しざまに言われたり、
反対に「こんな文法も君は知らないのか」と知識自慢のネタにされたりします。
文法については、「要否」を論じることは本質からズレています。
文法自体は、特に非母語話者である私たちが、社会人生活をしながら短期間で手っ取り早く外国語を習得するために役立つ、魔法のような道具です。
赤ん坊の時から母語としてその言語を聞いて使って育ってきたネイティブでさえも、学校で文法教育を受けないときちんとした文章を作れないのですから、ノンネイティブに必要なことは言うまでもありません。
一方で、「正しい文法」という話になると、議論が分かれます。
主に、伝統的な表現を重視する人たちと、世代や時代による言葉の変化に寛容な人たちとの間で意見が分かれます。日本語で言えば、「ら抜き言葉」や「させていただく」の是非などがこれです。
受験英語は、正しさを基準に人を競争させるのが目的なので、どうしても「正しい文法」に注意が行きがちです。
が、文法は本来「存在している」ものであり、「学ぶべきか」や「正しくあるべきか」といった「べき論」で語るものではないのです。
では、語学学習における文法とは、どんな文法なのでしょうか?
それは、「自分の気持ちを表現したり、相手の言っていることを理解するために必要な文法」のことです。
分厚い文法書に書いてある細かくて複雑な文法事項が果たして要るのかというと、「必要な人もいるから書いてあるのだろう」と言うのが私の率直な意見です。
仮定法なんて必要?
必要な人もいるし、不要だと思う人もいる。
それはそれで良いのです。
そして、不要だと思っていた人も、学習が進むにつれて必要性を感じれば、その時に使い方を学べば良いのです。
それはそれで良いのです。
大事なのは、「今の自分に必要なのか」という判断軸です。
ここでも、単語学習の際に述べた「自分本位の学び」が重要になります。
今の自分に必要な文法事項を、自分が必要だと思うから学ぶわけです。
翻訳をしない
日本の多くの教本には、原文の後に日本語訳がついています。
受験英語でも、英文和訳は定番の問題です。
確かに、原文を深く理解するためには、しっかりと構文解析をし、英文和訳をする必要はあります。
が、コミュニケーションの際、特に会話の場合は、一瞬で過ぎる音を相手にしなければなりません。悠長に構文解析や和訳をする時間はないのです。
だからこそ、構文解析や頭の中で和訳をする癖をやめて、原文を原文のまま、原文の順序のままに理解する必要があります。
もちろん、複雑な文をいきなり構文解析なしに理解するのは難しいです。
ですので、もっと構造が単純な文から始めて、たくさんインプットし、慣れていけば徐々にレベルを上げていくことが重要です。
不思議なことに、原文の順序のままで理解することに慣れてくると、原文の順序で情報を出すことに慣れてきます。
繰り返しになりますが、受験英語は知識量を競う、語学学習とは別物の競技です。あそこでは、本来そのレベルの語学力にはない学生を競わせるために、無理やりレベル不相応の難解な文章を読ませます。
だからこそ、構文解析や英文和訳などのテクニックが必要になるわけです。
が、実際のコミュニケーションで使う語学には瞬発力が必要なので、英文読解で培った能力ではそもそも太刀打ちできないんですね。
そういうテクニックが無駄だとは言いません。
使う筋肉が違うようなものです。
さらに、翻訳をすることの他の問題は、こなれた日本語に訳してしまうことで、「分かったつもり」を助長してしまう点です。
原文の構造や意味を理解できていないのに、「意訳」と称して自己流の解釈で理解の溝を埋めようとする人も、和訳を行う人の中には存在します。
(自分で書いていて耳が痛い…)
そうしてしまうと、語学力が伸びないし、自分の問題点(=伸びしろ)を見えなくしてしまうので、結局誰にとっても利益になりません。
以上は、私が大人になってから本格的に学び始めたドイツ語についての経験を基にしています。
別の記事にも書きましたが、ドイツで外国と関わりのある仕事に就いている人なんて皆英語が流暢なんで、ドイツ語なんて大方の人にとって学ぶ必要はない言語なんです。だからこそ、自分本位に学ぶことができました。
でも、語学学習って、本来は自分本位のものです。
大方の人に必要でも、自分に必要性が感じられなければ、学ぶ必要なし。
逆に、自分が必要だと思うのなら、その時になってから学べば良い。
このマインドでいれば、徐々に受験英語的な思考から脱却できるのではないかと思います。
少しでもお役に立てれば幸いです。