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受験英語と負の遺産

英語と、私が学んだその他の言語との大きな違いは、
英語が受験勉強の必須科目だったことです。

そして、受験英語を通して身に着けてしまった英語の癖が、今でも自分の足かせになっていると感じます。

何故かと言うと、学校英語は大学受験で問われる知識・能力を前提に教えられるためであり、

大学受験で問われる知識・能力とは、受験生を選別し差をつけるために課される問題を解けるための知識・能力だからです。

結果、どうしても些末な文法・語法事項や、難解な単語を問う必要が出てきます。

しかも、英語自体の文法は、他の欧州言語に比べてそこまで複雑ではありません。

つまり、実生活で使えるレベルに達成しているかを判断したいのであれば、実はそこまで難解で細かい事項まで問う必要はないのです。

ですが、そうすると受験生の選別材料として役に立たないので、
更に難易度を上げる必要が出てきます。

語学試験と受験英語の大きな違いは、

前者は学習者の語学学習を促進させるためのもの、つまり「受からせるための試験」であるのに対し、

後者は「落とすための試験」である点です。

前者は合格者の数に制限はかかっていませんが、
後者には制限がかかっていることからも明らかです。

そのため、受験英語の学習の仕方は、コミュニケーションの手段の習得という語学学習の本質から外れており、無益とは言わないまでも、すごく有益であるわけでもありません。

私が個人的に思う、受験英語を通して英語を身に着けたことの「負の遺産」は、非常に強い「減点思考」「正誤判定への拘り」です。

「この文は文法的におかしいのではないか?」
「正しい表現は一体何なんだ?」

正答を追い求めるこの強迫観念は、受験英語の学習から来ていると思います。
大学受験という人生を左右する大舞台においては、1点の差が人生を決めるわけですから、どうしても正誤判定にこだわる癖がつくわけです。

ただ、コミュニケーションの手段として外国語を学ぶのであれば、この「正誤判定」はそこまで重要ではないのです。

語学学習で一番大事なのは、間違いをたくさんし、そこから学ぶことです。間違いは恥ずべきことではなく、成長するためにむしろ奨励されるべきものです。間違いをせずに外国語を上達させた人など一人もいないでしょう。

語学の問題集を解く際に大事なのは正答ではなく誤答です。誤答にこそ、次のレベルにアップするためのヒントが隠されているからです。

一方、「正誤判定」の癖は、他人の間違いに無用に厳しい目を向けることに繋がるし、それが却って自分の首を絞めることになります。間違えることは悪という思考に陥ってしまうからです。

この考え方は、語学学習という試行錯誤の積み重ねが物を言うジャンルには向かない考え方と言えます。

また、「正しい英語」と正反対にある「ブロークンでも言いから話せれば良い」という考え方にも、私は同意しかねます。

この考え方は、受験英語への反発や反動に基づいていると思います。
「正しさ」を求めすぎると、人は何も口に出せなくなってしまう。
間違いを「犯す」ことへの恐怖心を解くために、この考え方が役に立つのは確かです。

ただ、コミュニケーションの手段として外国語を学ぶときに大事なのは、「完全正しい」でも「ブロークンで良い」でもなく、その中間です。

間違いに寛容であるのは良いし、むしろ積極的に間違うべきなのだけれど、
間違いは訂正されなければならないし、成長に生かせなければ、間違いを重ねることに意味は殆どないからです。

「ブロークンでも良い」という考え方に私が首肯しかねるのは、
「間違いはいくらでもして良い」というところで思考が止まっているように感じるためです。

正直、ブロークンな英語は、ネイティブにとっても、英語を用いるノンネイティブにとっても、聞いて読んでストレスになります。
ブロークンで通じる、というのは、ごく基本的な内容の会話や、話者同士が深く精通した内容の会話など、特殊な例に限られます。

さて、大人になってからドイツ語を勉強した私が、ドイツ語の方が英語よりも分かりやすいな、と思うのは、受験英語的な学習法から脱してドイツ語を学んだからだと思います。

日本にいる時は、ドイツ語学習も受験英語の延長でした。
日本で売られていた本や、日本の組織が実施する語学試験は、受験英語の影響を受けていましたし、何より自分の語学学習の手法が受験英語式でした。

ただ、ドイツに来てから、「表現や文法の正誤」ではなく、

「複雑な内容をどの程度深く理解できるか」
「複雑な思考をどれほど自由に表現できるか」

に重きを置いた評価基準でドイツ語を勉強するようになり、自分の語学学習の仕方がだいぶ矯正されたと感じます。

「減点方式」は「間違うことの否定」ですが、
「ブロークン」も「正しすぎることの否定」であって、
「正誤判定」という考え方からは抜け出せていないように思えます。

語学学習においては、「正しいか間違っているか」ではなく、「どれほど深く」「どれほど自由に」「どれほど豊かに」の方が重要だと私は思います。

どんなに外国語が上達しても、それが母語ではない以上、間違いが完全になくなることはありません。そのため、「正誤」に拘ると語学学習では前へ進めなくなります。

学生時代に英語が苦手だったとしても、学生時代に問われた「英語力」は実際の英語力とは違うので、大して問題ではありません。学生時代に英語が苦手でも大人になってから英語力が伸びたという人がいても、むしろそれほど驚くことではありません。

それより状況が深刻なのは、学生時代に英語が得意だった人です。
なぜなら、受験英語で問われた「英語力」は、本質的な語学力とは異なるためです。自負心はあるものの実戦で使い物にならないので、かえって英語に苦手意識を持つようになるかもしれません。

むしろ、受験英語と語学学習は別物と捉えて、一から全く新しい言語を学ぶような気持ちで英語に臨んだ方が伸びると思います。

前述したとおり、英語自体は難解な言語ではありません。簡単な言語でないのは確かですが、少なくとも東大受験生レベルの頭脳が必要な言語ではありませんし、そもそも語学学習において受験秀才的な頭は不要だと思います。

受験英語を、受験英語的な学習法を脳からアンインストールできたらな、と私は常々思います。

実際はできなくても、せめて気持ちの上だけでもアンインストールしたいものですね。