【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【1】
冒頭第一章の試訳を掲載させていただきます。原文では漢字が分からないため、日本人の登場人物の漢字名は私が便宜的につけています。原文は場面転換で行間を空けてないのですが、読みやすさを考慮して空けています。
第一章 回天の末裔
카이텐의 후손
日本の西海岸、舞鶴港。
海上自衛隊第三護衛隊群基地内の剣道場では、黒い胴着の青年と、白い胴着の中年男性が対戦を繰り広げていた。
「面!」
「胴!」
黒い胴着は白い胴着よりも動作が速かったが、攻撃を成功させるのはいつも白い胴着の方だった。正座した将校たちは、信じられないというように、しきりにため息をついた。尉官級最高の技量を持つ渡辺海尉が、中年に至った松井英雄海佐に押されるとは、誰も予想できなかったためである。白い胴着の防具の中から、突然唸り声が聞こえた。
「タイミングがスピードを制するのだ!」
渡辺海尉は姿勢を正し、鋭い気合の声とともに、疾走する馬のように床を強く踏み、黒い胴着に向かって走っていった。
「小手! 面! 面! 小手! 面!」
渡辺海尉の竹刀を一手一手抑え、後ろへと追いやられた松井海佐は、風のようにひらりと体を横に向けると、竹刀の先で渡辺の首元の防具を突いた。グッという音ともに、息が詰まった渡辺は竹刀の先を下へ落とした。対戦はこれにて決着がついた。将校たちが一斉に立ち上がり、旭日旗の下にずらりと並んで正座した。松井海佐は胴着を脱いだ。広い額にほとばしる玉のような汗が、太い眉毛を越え、鋭い鼻筋を伝い、分厚い唇へと流れ落ちた。
「黙想!」
松井海佐が音頭をとると、残りの将校たちが大声で復唱し、目を閉じた。松井海佐の心臓は未だに強く高鳴っていたが、気道では息が細く静かに流れていた。
徐々に雑念の霧が晴れていくと、道の終わりの方からたくましい軍人が歩いてやってきた。彼こそすなわち松井海佐の祖父であり、回天特攻隊大将だった松井龍太郎海尉だった。
第二次世界大戦末、空に神風特攻隊の戦闘機があり、海には回天の潜水艦があった。米海軍が沖縄沖合まで攻め込んできた時、松井龍太郎海尉は千人の女性が縫取りした千人針を腹に巻き、天皇が下賜した短刀を腰につけて、天皇が与えた酒を喉に流し込むと、回天の中に入った。母体の潜水艦と連結された鎖が外れ、スクリューが回転しながら200キログラムの爆弾を積んだ回天は帰らぬ道へと旅立った。
四方八方から飛んでくる銃弾がドラム缶のような回天を強く打ちつけるにもかかわらず、人間魚雷・回天は、アメリカの駆逐艦の脇腹にぶつかって激しく爆発した。ただ一人の軍人が、世界最大のアメリカの軍艦を撃沈させた話は、日本の海軍の伝説として残った。伝説の中の英雄が自身の祖父だという事実は、松井海佐にとって、幼い頃からプライドとアイデンティティの源泉だった。
剣道場を出た松井海佐は、軍服を脱ぎ、革ジャン姿で波止場のほとりへと向かっていた。一昨日、司令官が松井海佐を部屋へ呼んだ。
「明後日の晩に、基地の入り口近くにある波止場へ、民間人の服装をして出てこい。そこで田中という人に会うことになる。お前はこれから、その男の指示に従えば良い。気になることが多いだろうが、尋ねるな」
松井海佐は当惑した。司令官が軍人に対し、軍隊内の指揮系統ではない軍隊外の誰かの指示に従えなどという命令をするのは、二十年以上の軍生活の中で初めてのことだったからだ。
波止場には秋の海風が鉄骨の施設の間で刀を研ぐような金切り声をあげる中、そこに似つかわしくない銀色の高級車が1台止まっていた。小柄で白髪の運転手が運転席から降りてきて、松井海佐を見ると、深々と丁重に頭を下げ、後部座席の扉を開いて言った。
「松井海佐でいらっしゃいますね? どうぞ、お乗りください」
銀色の乗用車は、西海岸の循環道路に沿って、時速一六〇キロを超える速い速度で走り出した。
「今からどちらへ?」
「行ってみれば分かります」
「どれくらいかかるのですか?」
「それも、行ってみれば分かります」
老人は、ルームミラーで後ろに座る松井海佐を見て口に笑みを浮かべ、付け加えた。
「顔つきがとても良くなりましたな。もっとも、イラクよりかは舞鶴港の方がずっと過ごしやすいでしょう」
「私を見たことがあるのですか?」
「フフ・・・イラク派遣の前、特殊部隊所属時代から、関心を持って見守っていたのですよ」
松井海佐は、運転をしている老人の姿をしげしげと観察した。額が、小さな顔の半分を占めるほどに長く、高くそびえ立っていた。
メーターが時速一八◯キロを超えているにもかかわらず、薄い唇には余裕の微笑が浮かんでいた。
「一体、あなたは誰ですか?」
「私が田中ですよ」
老人は再びルームミラーを通して松井海佐に微笑みかけた。口は笑ってたが、長く裂けた目には、松井海佐が戦ってきたどの剣客よりも強い気迫がきらめいていた。
「申し訳ありません。運転をされていたので、思い出せず」
松井海佐はもたれていた背筋を正した。
「私が勝手に自分で運転してきたのですよ。年をとると、何でも自分の手でする癖をつけなければいけない。そうしてこそ、1日でも若返るものなのです。久しぶりにドライブもしてね。これから死ぬまで、あと何回できることやら」
そう言いながら田中は、アクセルをさらに深く踏んだ。車は先行車を次々に追い抜き、時速200キロを超えた。
「ああ、清々しい。このまま死んでも良いくらいだ。若い頃は私もこの車のようにすばしっこかったのに、今は飴のように硬くなってしまったものだ。おや、自己紹介がまだだったかな? 私は内閣調査室の人間だよ」
ようやく松井海佐も状況を少しばかり飲み込めた。内閣調査室は、総理直属の日本最高の情報機関として、要員の身元や任務等の大部分は秘密にされている組織だ。
車はある古びた立ち飲み屋の前に止まった。飲み屋の入り口には、若くてがっしりした男たちが3、4人立っていたが、田中を見た途端、腰を90度に曲げて挨拶した。和室で田中は松井海佐と向かい合って座り、酒を海佐に注いだ。
「私は松井海佐の能力を高く買っておるのだよ。勤務する部隊ごとに隊員を完全に掌握するカリスマ、卓越した刀さばき、虎のような度胸と勇気、素早い判断力、何よりも、強い日本に対するビジョンまで。英雄の孫らしく、自他共に認める一級海将だ。そのため、我々日本が松井海佐の助けを必要として、このように直接お招きすることにしたのだ」
ふと聞いてみれば褒め言葉のようなその言葉は、松井海佐をさらに緊張させた。田中が自身の性格や趣味、一族の来歴、思想まで一つ一つ把握しているということだからだ。
特に「強い日本に対するビジョン」という言葉は、松井海佐の右派的な政治傾向を指摘したものだった。日本社会で、特に自衛隊内部で政治的性向がばれることは、望ましいことではなかった。だが、松井海佐は本心を隠す普通の日本人とは違った。
「私の目には、今の一級海将が祖父の時代の末端の兵士よりも劣って見えます。当時、日本軍は、中国、ロシアを破り、アジアを代表し、アメリカに立ち向かった世界的な軍隊でした。
しかし、今の軍隊は、いまいましい憲法のために、弾を一発も打てず、防犯隊員と何が違うというのでしょうか? 国を守る最も神聖な任務を負っている、だからこそ誰よりも尊敬されなければならない日本の軍人が、戦後日本社会で受けた待遇は、どのようなものでしたか? 自分の父親が自衛隊員だと、自分の息子が自衛隊員だと、日本人に対しても堂々と言うこともできない職業ではありませんでしたか? 私には、一級海将になることよりも、我々自衛隊の名誉と立場を回復することの方が、より切実なことです」
「私は松井海佐のその愛国心を高く評価しているのだよ。国があっての個人ではないか。個々人の利益を一つ一つ全部問いただせば、一歩も前に進めやしない。国家が弱くなれば、個人としてもあらゆる損失を受けるほかないのだからね。
愛国心は抽象的なスローガンではなく、実利的な共存の知恵なのだ。日本人には愛国心が足りない。その上、愛国心を罪悪視しているではないか。あたかもそれが国を滅ぼした元凶であるかのように。そうしたら、個人主義ばかり荒れ狂い、日本は歯を失った虎へと転落してしまったではないか」
「しかし、長い間日本の政治指導者にこそ愛国心が欠けてたのではありませんか? 日本のために最も大切な命までも捧げた方々がいらっしゃる靖国神社に参拝することすらも、他国の機嫌を伺って拒否したではありませんか。他国が認めてくれもしないのに、過度に謝罪や反省を繰り返し、恥辱的で愚鈍な自虐をしてきたではありませんか?
歴史的に見て、アメリカ、中国、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、ロシアの方が日本よりもずっと多くの国を侵略したというのに、皆が日本にだけ歴史問題で噛み付く理由が何かご存知でありますか?
それはすなわち、我々が戦争で負けたからであります。強くなること、それだけが歴史問題を整理することのできる最善の方法であります。にもかかわらず、自虐的でやきもきしている日本政府が、私を呼ぶこと自体、気に入りません」
この言葉に、初めて会った時から今まで微笑を浮かべていた田中の表情が、冷たく固まり、目つきがマムシのように険しくなった。
松井海佐は、その目をそのまま向かいあって見据えた。
「気に入った。やはり気に入ったわい」
田中は突然、大笑いをし、一人で手まで叩いた。
「私の考えも松井海佐と同じさ。だが、私はこれまでの政権が何もしなかったとは考えない。天下を統一したのは、無慈悲に刀を振り回した織田信長ではなく、あらゆる屈辱を耐え、時を待った徳川家康だった。日本は長い間、対外的に穏健姿勢を取ってきたおかげで、対内的に力を蓄えることができたのだよ。
防衛庁を防衛省に昇格させて、ミサイル体系を構築し、イージス艦を建造し、集団的自衛権を実現させ、事実上平和憲法を形骸化させたのだ。核兵器製造技術を確保し、プルトニウムまで求めたのだから、組み立てをしないだけで核兵器も保有したも同然ではないか。歴史教科書を改定し、若者たちの愛国心を鼓舞しようと、あらゆるところで民間の愛国団体を全国規模に拡大し、有事に全日本を思想的に組織化することのできる基礎も準備してある。
我々を滅ぼした張本人であるアメリカに対して、周辺国がアメリカのガールフレンドだとあざける程に心を尽くし、アメリカを日本の最高の友邦に変えたのだ。莫大な資金を寄付し、国連での発言権を拡大し、最近はそうして念願だった国連安全保障理事会の常任理事国までなったのだ」
田中の話が続くうちに、松井海佐の敵愾心が、春の日の雪のように溶けていった。田中が話す言葉が、意外にも松井海佐が普段持っていた考えと一致し、嬉しい反面、驚いた。これまでの政府の態度が屈辱的だとばかり見てきたが、政府の政策にこれほど深い内情があったとは知らず、批判ばかりしてきた自分を恥じるほどだった。
「だが、あまりにうんざりしすぎてはいけない。今や、我々日本も行動する時が来ているのだよ。松岡総理が近々、『新明治維新』を断行する準備をしている。
憲法を改正し、自衛隊を正式軍隊に復帰させ、天皇の立場を強化し、愛国勢力を育成させるのだ。敗戦国としての過去に終止符を打ち、どのみちいくら努力したところで変わらない被害者意識にまみれた中国や韓国を捨て、他のアジア諸国を包み込む、新脱亜入欧外交を志向するのも核心だ。
この枠組みの中で、松井海佐がすぐにしなければならないことがある。ど
うかね? 我々とともに働いてみんかね?」
「なんでもやらせてください。この身の全てを捧げます」
松井海佐は、座ったままで気をつけの姿勢をし、頭を下げた。侍が一生の主君に出会ったような気分だった。
「ありがたい。そう言うと思っていたのだよ。我々は、新明治維新の一環として、まず最初に韓国が不法占拠している竹島を取り返す考えだ」
「竹島を取り返すとおっしゃり、血が騒ぎます。ロシアに奪われた北方領土とともに、以前より、必ず我らの手に取り戻したいと考えていた領土であります」
「やはり、ロシアよりかは韓国が与しやすいため、我々は竹島から取り返す考えだ。竹島を取り返すために、私は3段階の計画を立てたのだ。そのうちの第一段階と第二段階を、松井海佐に引き受けてもらわねばなるまい。最初は、イ・ヒョンジュンという小説家から、『駕洛国記』という文書を取ってくることだ」
「イ・ヒョンジュンでありますか? 耳にしたことがあるようですが」
「在日の小説家だ。日本にもかなり読者がいる。だから、すぐに除去はできなかったのだ。だが、今回イ・ヒョンジュンが『駕洛国記』をおとなしく手渡さなければ、殺しても構わん。私は、松井海佐に各種の武器、装備、部下に至るまで、仕事をするのに必要な資源全てを惜しまない。まず、使える部下を与えよう」
田中が呼ぶと、引き戸が開き、3人の男が入ってきて、膝をついて頭を下げた。
「お前たちの新しい主人を紹介する。松井先生だ」
男たちは立ち上がり、松井海佐の前で腰をかがめた。
「満足に仕事ができなければ殺しても良いという約束をしてスカウトしてきた奴らだ。かなり使えるだろう。気に入らなければ直接殺しても構わん」
一体どこからスカウトしてきたのだろうかと松井海佐が気にしている間、 田中は螺鈿の箱を開き、柄に龍の模様が刻まれた短刀を取り出した。
「主人が変われば、申告式を行わねばならぬな」
田中が鞘を抜くと、鋭利でつやのある刃が現れた。その刀の先が、徐々に松井海佐の口元に近づいてきた。
「口を開きなされ」
松井海佐は目を見張った。
「聞こえないのか。口を開けんか!」
田中が睨むと、松井海佐は、マムシに毒を注入されたように、自ずと口を開いた。剣の達人の顎が、小刀の前で微かに震えていた。刃が口の中をかき回すと、口蓋と舌に火の塊が移ってきたようだった。血とまぜこぜになった唾液と一緒に、気合の声ともうめき声ともつかぬ声が刃を伝ってこぼれ落ちた。田中が刀を杯に浸すと、刃に付着した血が、杯の中で薄紅色の花の歯のように輝いた。
杯の血を口の中にぶちまけた田中は、空の杯に刀を挿し、酒を注ぐと、松井海佐に差し出した。しばらくためらった松井海佐は、刀を持ち、正座した3人の男の口の中に刀を突っ込み、手首に力を込めた。松井海佐の動作は一層がさつで、刃が挿さった杯の色はもっと赤かった。田中は浮かれ騒ぎ、手を叩いてげらげらと笑ったのだった。
【2】へつづく