ロマンチストなドイツ人

「ドイツ人とはどんな国民か?」という問いが投げかけられるとき、しばしば耳にするキーワードの中に「ロマン主義 Romantik」という言葉がある。僕は文化史に弱いのでちゃんと理解しているか不安だが、合理主義に対置される概念で、理性ではなく感覚や感情を重視する思潮を指すようだ。ことドイツ人を評して「ロマン主義」という言葉を使うときは、ゲーテやベートーベンといった本当のロマン主義の有名人の故郷だというよりも、「現実離れした」という意味で使われている印象がある。

 これは意外に思うかもしれない。日本では質実剛健で現実的、生真面目で勤勉な、プロイセン的なドイツ人のイメージが浸透しているように感じるからだ。

 実際、ドイツ人は他のヨーロッパ人と比較して勤勉で真面目かつ倹約家である。彼らが現実的な考え方をとても好むという印象は僕にもある。にもかかわらず、不可解なことに、彼らは自分たちが崇高だと認める理想を見つけると、ロジックなんかかなぐり捨ててその理想に飛びつこうとする一面を備えている。そして彼らは、この唐突な論理の飛躍を指摘されても涼しい顔をしているのだ。

 他のヨーロッパの国に長く住んだことがないので安易な比較はできないが、ドイツ人には極めて現実的な一面と、夢想家の一面を持ち合わせた人をよく見かける。そして、倫理的に誰よりも良くあろうとする傾向が強く感じる。

 戦前はその理想像が「誇り高きゲルマン民族」という排外的な民族主義だったし、ナチズムの過去を全否定された後には道徳的優等生であろうとしてあらゆる問題に熱心に取り組んできた。歴史問題に対するドイツの熱心な取り組みは言うまでもない。チェルノブイリ原発事故が起こってからは環境問題の優等生であろうとし、フランスやチェコやポーランドが国境近くで原発を動かしている中、ある種宗教的な信仰心をもって脱原発を進めている。そして、難民危機が起きた時、ドイツ人は、―挫折したとはいえー喜んで難民に救いの手を差し伸べ、「倫理帝国主義」なんていう隣国の揶揄をものともせず、人道精神の模範国という自画像に酔いしれていた。

 時代時代によって彼らを導く理想は異なるが、ドイツ人の根本的な部分は戦前からそこまで変わっていないのではないかというのが、僕の良くも悪くもない、率直な感想だ。原発の話をドイツ人としていて思うのだが、ひとたびある「良い理想」に魅了されると、理性的なドイツ人であっても反対意見を認めない教条的な態度を示すことがあり、その壁を超えるのはなかなか難しい。しかも理想を持ち前の真面目さでとことん追求してしまうのだ。反論を容赦しない上から目線の態度に直面するたびに、ドイツは歴史問題やエネルギー問題を語る場所ではないとすら感じることもある。

 もちろん、●●主義というものは世界の至る場所で多くの人々を突き動かしており、ドイツ人だけが理想の虜となっているわけではない。だが、ドイツ人ほどギャップの激しい国民も珍しいのではないかと思う。

 ドイツはその歴史を通じて長い間分断されてきた。「ドイツ」という言葉も、高尚な言葉である「ラテン語」に対する「民衆の言葉」という意味の単語に由来しており、地名ではない。民衆の言葉=ドイツ語を話す民を指すとはいえ、その集合体がどこまでの広がりを持つかという認識は歴史を通じてて一定ではなかった。ありていの話で恐縮だが、数百もの諸邦に分かれて暮らしていたドイツ人は、細かく敷かれた国境を越えて「ドイツ人」という民族意識を作ろうとしたときから、遠大な理想を描き、それに魅了されるようになったのかもしれない。戦争のたびに領土が増減したドイツ人にとって、彼らの描いた「ドイツ」という国家の広がりは、必ずしも現実とは一致していたわけではないが、理想は国境を越えて多くの人々を結びつけ、一体感と得も言われぬ快感をもたらしたのだろう。

 ヨーロッパの歴史は、その中央に位置するドイツの動きによって安定もし、混乱に苦しめられもしてきた。戦後長い間「道徳的な優等生」を目指し、それを誇りに思ってきたドイツにも、ポピュリズムの足音が聞こえ始めてきている。ドイツが掲げる「理想」が、果たしてヨーロッパに繁栄をもたらすのか、あるいは再び災厄をもたらすのか。ヨーロッパの中心に暮らす「現実主義なロマンチスト」たちの一挙手一投足を、周辺諸国は冷静に見守っている。