「アジア人」と日本人

 日本人とイギリス人は似ているところがあるそうだ。両国とも島国であり、大陸と地理的にも距離を置くことができたので、自分たちをそれぞれ「アジア人」「ヨーロッパ人」と考える意識が大陸諸国に比べて薄いのだという。

 大学生時代にこのような話を聞いたが、確かに「アジア人」という言葉には、何となく「他者」(日本人とは別の人)というイメージが付きまとい、しかも何となく下に見た感じがする。

  「脱亜入欧」で形作られた欧米志向の自己認識が、自分の中にまだ潜在的に存在し続けているのかもしれない。

 このことを思い出したのは、ドイツに留学したときだった。

     母国から遠く離れた留学先では心細いのはどの留学生も同じで、語学学校では、見た目の近い者同士が仲良くなることもよくある。

     尖閣諸島をめぐる日中の対立が遠くドイツのメディアでも報道されていた頃だったが、僕も中国人や台湾人、韓国人の留学生とよく交流をしていた。

 自分を自己紹介するときはいつも「自分は日本人です Ich bin Japaner.」と言っていたのだが、ある日ドイツ人に「あなたはアジア人でしょう? Sie sind Asiat, oder? 」と言われて、とても違和感を覚えたことがあった。

    同時に、違和感を覚えた自分の中に、「アジア人」という言葉に対して自分が否定的なイメージを持っていることに気づき、恥ずかしく感じもした。

 昔であればこそ「アジア人」というのは、先進的で文明的な「ヨーロッパ人」に対置された、後進的で劣った人々という否定的なニュアンスを含んでいたのかもしれない。

 だが、そのときこの言葉を発したドイツ人は、僕たちがフランス人やドイツ人をまとめて「ヨーロッパ人」と呼ぶように、「アジア人」という言葉をニュートラルな意味で使っていた。そこに差別的な含みはなかった。

 けれども僕は、自分が「アジア人」と呼ばれるのに何故か居心地の悪さを感じた上に、「アジア人」と言われたとき、中国人、韓国人、ベトナム人、タイ人……と、ドイツにいる他のアジア諸国の人の顔は浮かんだが、日本人の顔は何故か思い浮かばなかった。

 自分が「アジア人」を自分とは別者だと考えてきた、ということにはっきりと気づかされたのは、そのときだった。

 もとより、一般ドイツ人はアジア人同士を区別するのが苦手だ。「俺は日本人と中国人と韓国人の区別がちゃんと分かるぜ」と自慢げに言ってくる輩もいるが、それこそ一般人にとっては区別がつかないということの証だ。

 けれども、3国民が互いを互いと見間違われることを嫌がるということは何となく知られているらしい。そこで、余計な波風を立てないように、「アジア人」という呼び方をしている、ということなのかもしれない。これならどの国民も包括する概念であるので、間違えることはないと思ったのだろう。これに自分自身が含まれていると感じない日本人がいるということは計算外だったと思うが……。

 とにかく、僕はアジア人でもあるのだ。それ以降、僕は「アジア人」という言葉に敏感に反応しなくなったし、自分でも使うようになっていった。

 ドイツ留学中、この関係で違和感を覚えたことはもう一つある。日本食、中華、フレンチ、トルコ料理、イタリアンと並ぶレストラン街に、どの大都市にも必ず一軒はある「アジアン・レストラン」というレストランのことだ。

「アジアン・レストラン」では、タイカレーやベトナムのフォーのほかに、中華の野菜炒めや、裏巻きやサーモンの握りを中心とした寿司やラーメンなどがメニューに並んでいる。要はアジア諸国の軽食がなんでも食べられる店なのだ。

 店はたいてい、ベトナム人か中国人が経営しているイメージだ。タイカレーと一緒に巻き寿司を食べるのは最初違和感があったが、ドイツ人からしたら全部「アジア料理」であるわけなので、なんの不思議もないようだった。

 翻って日本には「アジアン・レストラン」というものは無いのではないか。また、ドイツにドイツ料理とフレンチとイタリアンを一緒くたにした「ヨーロッパ・レストラン」なんかも無いはずだ。それぞれの国の料理が独立して個性を発揮しするもので、一緒くたにはしない。

 それでも、使う材料も味付けの仕方も違うアジア各国の料理を全部取り扱うことに違和感を感じないのは、ドイツ人にとっては、北東アジアも東南アジアも、あまり区別のつかないことを意味しているのかもしれない。

 日本は先進国の一員であり、ヨーロッパと同じ価値観を共有する西側の国である、というのは政治の場で幾度となく繰り返されてきた言葉だ。

 けれども、ドイツ人と僕たち日本人を明確に分断する「アジア人」や「アジア料理」という概念を目にし耳にするたびに、やはり日本はドイツにとって遠く離れた「他者」なのだと気づかされる。

 そしてそのことに、なるほどと思うと同時に、超えられれない壁のようなものを感じてしまう。

 僕たちは、彼らと違う、アジア人なのだ。