部活動を考える
おはようございます。
年齢を武器にマウントを取ってくる人が世の中にはいると思います。
例えば、僕がコミュニティの仲間に対して「俺の方が経験あるし、物事を知っている」ってマウント取ったら、そのコミュニティでは出てくる話題も限られてくるち思うんです。
こういうことが日本では山ほどあるわけじゃないですか。野球に限らず、ビジネスでも、いろんなコミュニティでも。自分より知っている人の意見を聞いた方が絶対、いい答えに近づくと僕は思うわけです。
さて、そんなこんなで、今回のテーマですが、「部活動」について、もう一度、語り合いたいなと思います。オンラインサロンのzoomではいつも白熱した議論になるので、書き残しておこうと思います。
以前に書いたものと重なる部分があるかもしれませんが、お許しください。
第1回 学校にスポーツがあるということ
僕は部活動について、今、2つの課題を感じています。
1、 スポーツの本質がずれてしまうこと
2、 教員はスポーツの指導者になれるのか。
前提として、今の教育制度が変わらないものとして、お話ししますね。
そもそも、学校の中になぜスポーツがあるのかというところに問題はあるのですが、学校の中にあることで生じるのは、学校が教育現場である以上、スポーツも教育の一つになるということです。
スポーツをするということは、元来、教育ではないと思います。
選手が律して、人としてのあり方を求めるものではありません。
指導者が選手に教えるのは、スポーツの楽しみを教えること、選手がスポーツを楽しんでいくことに寄与する、であると思います。
つまり、言ってみれば、嫌なことを強制的にやらせることはありえない。
もちろん、必要性を説くことはあります。
例えば、選手が野球を上手くなりたいというのであれば、上手くなるために寄与しなければいけないので、「こういう練習をするといいよ」「この練習をすれば身につくよ」という提示をしなければいけない。
その中で選手がどれを選んでいくかを見守るのであって、最初から材料すら提示しないのは泳ぎ方も知らないのに、海に放り投げるようなもの。
選手がどうなりたいかというのが先にあり、それを実現するために指導者が存在する。そして、それを実現できた時、選手は楽しいと思える。
それがスポーツのあり方だと思う。
しかし、そこに教育が介在すると、ややこしいことになります。
まず、授業というものは教育方針、カリキュラムというものがあり、それにしたがって、教師は課題を与えることになります。
「これをやりなさい」「あれをやりなさい」。
教師がそれを指示するのは、ある能力がつくためですが、みんなが同じことをすることによって、平準化できる。個人差は必ずあるのですが、底辺に合わせることはない。100点を取れる生徒と0点の生徒がいても、進んでいく。
生徒がやりたいか、やりたくないかは関係がない。
それをすることが平準化の最善の方法になるわけだから、そこについて来れる生徒は成績優秀と判断され、他は必死についていくということになる。
授業を受けるのが嫌で、態度が悪い生徒がいても、進んでいく。それが学校というもの。
そして、中間・期末という短期で結果を出さなければいけない「試験」があるので、その教えは詰め込みになる。本来、勉強とは生きていく上で必要なものを学ぶ機会なのですが、気がつけば、点数を取るためのものになっていく。
でも、学校は教育が目的であるから、それでいい。一人で40人くらいの生徒を受け持つ教師はそうしていくことが1番の手法である、そう信じ込まれてきたのです。
智弁和歌山・中谷仁監督の真理をついた言葉
これをスポーツに当てはめていくとどうなるのか。
一律の練習に当てはめて、その平準化について来れたものだけが出場機会を得ていく。他は切り捨てられるわけです。
レギュラーになった選手にしても、それが楽しいかどうかは関係なく、そこに耐えることで、レギュラーになれるわけだから、我慢しているだけ。
指導者の当てはめたものに、従わなければいけない。楽しいか、楽しくないかは別にして。その折り合いをつけるために、トーナメント戦で結果を出す。勉強と同じように、詰め込んで、詰め込んで、詰め込んで。。。。。
いわば、学校で行われていることと、グラウンドで行われていることは変わらなくなる。
それがスポーツの本質なのだろうかと僕は問いたいです。
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