連絡帳のデジタル化:社会変化のスピードに関する日韓の違いについて
連絡帳という日本文化
子供が小学生になって不思議に思うことの一つに、連絡帳がある。日本では、小学生の保護者と先生との連絡は、今も紙の連絡帳を用いているところが多い。連絡帳には、教室で先生が板書した連絡事項を子供が書き記すことになっている。それを親が家でチェックしてサインをする。親からの質問や連絡事項などあれば、その連絡帳に書き込む。そうすると、先生も連絡帳に回答を書いてくれる。学校を休むときには、学校に電話するよりも、連絡帳に書いて近所の子に手渡すようにと言われることが多い。
日本は世界的に見てもITが普及しているほうで、LINEのようなSNSは多くの人が使っているし、教師と保護者が連絡を取り合えるような専用のスマートフォンアプリも開発されている。そのようなアプリを普及させ活用していくことは、難しくないように思える。しかし実際には、アナログな連絡帳を用いている学校は多い。これは学校の連絡帳に限ったことではない。デジタル化がすることが難しくなさそうなところでも、アナログなコミュニケーションや仕事の進め方が根強く残っているという状況は、社会のあちこちで見られる。
日本の社会でデジタル化が進まない理由は何なのだろうか。小学校の連絡帳のケースでいえば、下の記事では、予算の問題、関係者の中で共通認識ができていないこと、セキュリティーへの不安が挙げられている。
ここで特に興味深いのは、2番目の関係者の中で共通認識ができていないことである。この記事では、次のように述べられている。
デジタルに不慣れな人など、様々な人々の立場に配慮しているところは興味深い。こういうやり方は、全体として公平な機会を提供するという点で、誰もが平等な社会を追求するという姿に見える。もし私がいま社会の急速な変化に困難をかかえてた当事者であるなら、自分のような人まで考慮してくれることで、救われるところがあると思う。しかし、社会全体の発展から見れば、変化が遅れることにもつながり、不便さに我慢しながら暮らしていかなければならない人々もたくさん出てくる。そして結局のところ、変化自体が難しくなるという悪循環が生じうる。
韓国の場合
一方、韓国はどうだろうか。最近韓国の小学校では、教師と保護者とのやり取りは、カカオトークのようなSNSで行われるのが一般的になってきているという。ただ、ある韓国の記事によれば、保護者がSNSで連絡してくるので、やり取りに疲労を感じる教師が多いのだという。教師と保護者の間の連絡方法がデジタル化される中で、便利さが増す反面、問題も生じているという現実を憂慮する内容だった。
いずれにしても、韓国ではむしろSNSでの教師と保護者のやり取りが一般化していて、その中で問題が生じているようだ。
小学校に限らず、多くの面で日本よりも韓国のほうがデジタル化に躊躇がないように思える。韓国という国では、時代の変化の流れに合わせた新しい方式が迅速に導入され、個人はそこに素早く適応していくように見える。もちろんそこでは、時代の速すぎる変化に適応にできない個人も出てくる。例えば、地下鉄の駅にタッチスクリーンの切符発券機しかなくて、切符を買えずに周囲の人々の助けを待つあるおじいさんを見たことがある。はじめからそのような難関を避け、なるべく地下鉄ではなくバスを利用するというお年寄りも見たことがある。役所の書類申請の発給も、全部デジタル化されていて、便利さを享受する人々がいる一方で、むしろ苦労する人々もいる。社会の急激な変化についていくためにストレスを感じる人々も多い社会だ。ときどき韓国を訪れると、いつのまにか新しく変わった姿に驚かされたりする。
日韓の違いはどこからくるのか
「不確実性の回避」から説明できるか
日本と韓国は近い国なのに、どうしてこのような社会の変化の速度の違いが生じているのだろうか。変化に対する対応について考えてみると、まず思い浮かぶのは、「不確実性の回避(または許容)」(Uncertainty avoidance/tolerance)という概念だ。これは、様々な文化の違いを説明する主要な面として、文化心理学者ホフステード(Hofstede)が示した概念の一つである。新しい技術、新しい制度、新しい構成員(移民、外国人、難民)を受け入れることに対する許容度を表すものである。社会の構成員が既存の決められた少数の方式にこだわり、比較的不確実性が高い新しいもの・人を受け入れることに対して拒否感の大きい文化圏であるほど、不確実性の回避が高い社会として分類される。驚くことに、Hofstede Insightのウェブサイトにおいて、日本と韓国の不確実性の回避を調べてみると、92点と85点でほとんど差はなく、両国とも回避傾向の極めて高い社会だということがわかる。したがって、変化を受け入れる速度に関する両国の違いについて、不確実性の回避・許容から説明することは難しいということになる。
「権力格差」と意思決定の方式
では両国の違いはどのように説明されるのだろうか?
ここで、意思決定方式に注目してみたい。日本と韓国はともに、基本的には、個人主義よりも集団集団主義の傾向が強い文化圏だとされる。また、ホフステードの権力格差(power distance)という概念に注目しても、日韓はともに権力格差が相対的に大きい国で、両国間の違いはあまりない。これは、上の図からも見てとれる。
権力格差とは、社会の中の権威者と従属者の間の関係を表す概念である。権威者のパワーが強いほど従属者のパワーは弱く、それによって権力格差が大きくなる。反対に、権威者の力が比較的弱い社会では、従属者たちと力の差が小さい。権力格差が大きい社会では、例えば学校で学生(従属者)が権威者(教師)に異議を唱えることが難しいが、権力格差が小さい社会では学生が教師に自由に発言することができる。
集団主義・個人主義と権力格差は独立した属性だが、しばしば高い相関を表す。個々人の意見やウェルビーイングが重要な個人主義社会よりも、集団の意見が尊重され集団内で良好な関係を保つことが重要だとされる集団主義社会において、その集団の目標に向かって率いていくリーダーに相対的に多くの権力を与えるということなのだろう。
権力格差が大きい社会は一般に、意思決定がトップダウン的な社会でもある。意思決定は組織の上部からなされ、組織の末端はそれに従うことになる。韓国もまた、トップダウンの傾向が強い社会である。もちろん、どの議題に関しても熾烈な論争はあるが、最終的に決めるのはリーダーの役割である。これは政治の世界でよくみられる光景だ。
ところが、権力格差が大きい社会はトップダウン的であるという一般傾向には、例外がある。『異文化理解力』(The Culture Map)という本では、そのような例外として日本が挙げられている。日本社会は、権力格差が大きく、組織が階層的であるにもかかわらず、意思決定はボトムアップが基本である。日本の典型的な組織では、末端の意見を吸い上げながら上へあげていく。そこで重要になるのは「根回し」である。日本の組織は、時間をかけながら、誰もが納得するようなかたちで意思決定をしようとするのが特徴なのだ。
このように考えると、日韓のデジタル化の違いが説明できそうである。日本にも韓国にも、デジタルという新しいやり方に不安を感じたりマイナス面を懸念したりする人たちは、一定数いるだろう。ボトムアップ的に意思決定をする日本では、そのような人たちの意見が反映されやすいのだろう。一方韓国では、不安を感じている人たちがいても、トップが変化することへの必要性を感じれば、一気に変化の方向へと舵をきる。
おわりに
日本の社会で古いやり方がそのまま維持されがちなのには、上で私が書いたこと以外の理由もあるだろう。例えば、最初の方のプレジデントの記事に書かれていたように、多少時間がかかってもその人の誠意と努力の伝わる手書きにより大きな意味を見出すなどだ。ただ、そのような長く維持されてきた社会の伝統的価値と、忙しい現代人の生活との間には、乖離が存在すると思う。例えば、共働きのワーキングマザーを考えてみよう。忙しい一日を終えた後で子供の連絡帳を確認し、眠い目をこすりながらも、先生に何か書こうと誠意をもって手書きでコメントを書いたりする。これまでのやり方は、専業主婦に合わせて出来ていないだろうか。あるいは、新型コロナウイルスのことを考えてみよう。社会が迅速に対応しなければならないような外的な事態に対しては、これまでのやり方を変えてでも素早く何かに対応しなければならない状況が生じる。もちろん、スピードと慎重さの理想的なバランスは、状況によっても異なるだろう。社会はどの程度のスピードで変化すればよいのか、その適切なポイントを探すことが課題となるだろう。