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分子生物学者が考えるがん治療の問題点とこれから(3)

 がんが成長するにはエネルギーを必要としますが、ふつう細胞の中ではグルコース(ブドウ糖)を原料に、ミトコンドリアで酸素を利用して高エネルギー分子であるATPを合成し(細胞呼吸)、そのエネルギーを使って細胞の代謝やシグナル伝達を回しています。このような細胞呼吸と代謝に関する先駆的な仕事で1931年のノーベル医学生理学賞を受賞したOtto Warburgは、がん細胞が正常細胞とは異なる方法でエネルギーを作り出していることを見つけました。

 酸素のある環境では、正常細胞はミトコンドリアにおける酸化的リン酸化反応で1個のブドウ糖から36個のATPを合成します(好気性呼吸)。一方、がん細胞は(酸素があっても)ミトコンドリアの好気性呼吸を行わず、細胞質でブドウ糖を乳酸に分解する解糖系によって2個のATPを合成します(Warburg効果=嫌気性解糖)。ミトコンドリアの機能低下は細胞老化の現象のひとつでもあるので、がん細胞のWarburg効果を細胞の老化として捉えるのも興味深い視点です(後述)。

 がん細胞特有のエネルギー代謝のメリットは圧倒的なスピードであり、最大100倍。好気性呼吸で36個のATPを作る間に、嫌気性解糖では最大200個のATPを作ることができます。更に解糖産物の乳酸を細胞外に排出して周りの微小環境を酸性化し、免疫系の抑制と浸潤転移の促進をもたらす効果もあります。一部好気性条件下にあるがん細胞は乳酸を再度取込み(乳酸シャトル)、ピルビン酸へ変換してエネルギーの産生や細胞膜の材料であるリン脂質の合成に使っています。

 がん細胞は正常細胞の最大100倍のブドウ糖を消費するため、ブドウ糖が潤沢な環境はがん細胞にとって居心地が良いことになります。そこで、がん細胞の居心地を悪くするための戦略として2つの方向性が考えられます。

  • ブドウ糖の取り込みを邪魔する

  • 血糖値を下げる

 細胞がブドウ糖を取り込むポンプのはたらきをするのがグルコーストランスポーターで、ヒトには14種が知られています。ウイルス学者の畑中正一がウイルスによる細胞の癌化を調べていた時に、mycやrasがん遺伝子がGLUT1やGLUT3遺伝子のプロモーターを活性化して発現を高めることを見出したのが、がんとグルコーストランスポーターの関係を明らかにした最初の報告になります。

がんとグルコーストランスポーターに関する最初の報告

 GLUT1、GLUT3、GLUT4、GLUT12の4種のグルコーストランスポーターが、がん細胞で高発現することが報告されています。GLUT1の特異的阻害剤であるBAY-876の食道がんに対する抗腫瘍効果を調べる基礎研究が日本でも行われていますが、臨床試験には至っていません。[消化管癌・GISTに対するGLUT1阻害剤を用いた革新的治療法の開発] GLUT1は脳細胞や赤血球にも発現されているため、いきなりGLUT1をブロックしてしまうと副作用が無視できないかも知れません。次回のお話で紹介するケトン食療法によって代謝をブドウ糖からケトン体にスイッチした上でGLUT1阻害剤を使えば、正常組織への影響が緩和されると思いますが、今後の課題です。

 腎尿細管でブドウ糖の再取り込みを担うポンプSGLT2も、一部のがん細胞で発現されています。糖尿病の薬であるSGLT2阻害薬は既に安全性が確立されているため、これをがん治療に応用する試みがなされています。

糖尿病治療薬として開発されたSGLT2阻害薬(SGLT2i)のうち、特にカナグリフロジン(Canagliflozin)やダパグリフロジン(Dapagliflozin)は、特定のがん種において腫瘍の成長抑制や細胞死の誘導など、in vitro(試験管内)およびin vivo(動物モデル)で抗がん作用を示す可能性があることが、最近の研究により示唆されています。これらのSGLT2iを化学療法や放射線療法と組み合わせることで、治療効果を高め、副作用を軽減する相乗効果が得られる可能性があります。主な作用機序としては以下が挙げられます:
 ・がん細胞へのグルコース取り込みの抑制
 ・全身のグルコース制限
 ・複数のシグナル伝達経路の調節
 ・特定の遺伝子およびタンパク質発現の制御
さらに、初期の臨床研究では、カナグリフロジンが肝がん患者において、ダパグリフロジンが大腸がん患者において、腫瘍マーカーのレベル低下と関連する抗がん作用を示す可能性が報告されています。SGLT2iは一般的に糖尿病治療での使用実績があり、忍容性が高いことから、がん治療における薬剤の再利用や従来療法の補助剤として有望な候補となり得ます。ただし、現時点では、特定のSGLT2iが特定のがん種に対して効果を持つことが明らかにされていますが、各SGLT2iのさまざまながんに対する抗腫瘍能力を探るさらなる研究が必要です。加えて、特定のがん患者の治療レジメンにSGLT2iを導入する安全性や実現可能性を評価するため、臨床試験が求められています。また、標的腫瘍部位への効果的な薬剤送達のための最適な投与経路を特定することも重要な課題です。

Repurposing sodium-glucose co-transporter 2 inhibitors (SGLT2i) for cancer treatment
– A Review. Rev Endocr Metab Disord 22, 1121-1136 (2021)

 次回は、血糖値を下げる方法についてお話します。  

 

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