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恩は借りという意識

最近書いた内容に関係するものだけど、恩は借りという意識が自分の中では強い。

中学校くらいに全校集会で「恩は返すもんではなく送るもの。受けた恩は次はあなたが別の誰かに与えるのです。そうであれば親のような自分より年長のものから受けた恩を返せず悔やむことはなく、それでいて誰かの助けになる。だから恩は返すものではなく、送るものです。」

みたいな話を聞いて感動したのを覚えている。

けど自分は親や祖父母から受けた恩は、自分が帰省しなければいけない、介護をしなければいけないという縛りに変化してしまっている。

chatGPTにこの考えを批判してもらったら以下のような返答が。

1. 恩は本来自由なもので、負担に感じるのは思い込みでは?

恩を受けたからといって、必ずしも「借り」として返さなければならないというのは、かなり一方的な捉え方とも言える。恩を与えた側が「見返りを求めている」とは限らないし、むしろ本当に善意で行ったことなら、相手が負担に感じること自体が本意ではないはず。「恩を返さないといけない」という義務感に縛られているのは、受け取る側の思い込みの可能性がある。

これはよく言われるもので頭ではわかるけどどうしてもそう捉えれなくなる。

2. 恩を負担に感じるのは、自分の未熟さの現れでは?

もし恩を受けることで「自由を奪われた」と感じるのなら、それはまだ自分の価値観や精神が成熟しきれていないとも言える。恩を「縛り」ではなく「糧」として受け取ることができれば、もっと楽に生きられるはず。たとえば、「この人のおかげで今の自分がある」と思えたなら、それを踏み台にして自分の道を歩むことができる。恩を負担と考えるのは、まだその恩の受け止め方を自分で消化できていない段階だからでは?

これは結構新鮮だった。受けた恩を何かしらの形で変化しきれておらず、だからこそそのまま恩をくれた人に返さないと、余った分を、使えていない分を返さないとという考えになるのだと思う。

3. 「恩があるから自我を出せない」は言い訳になり得る

恩を理由にして自分の意思を抑えるのは、単なる逃げ道になっていないだろうか。恩があるから遠慮してしまう、自己主張できない、というのは結局、自分の人生の責任を他人(恩をくれた人)に委ねていることになりかねない。もし本当に自分の意志を持ちたいなら、「恩があるからこうしなければならない」と考えるのではなく、「恩を受けた上でどう生きるか」を選択すべき。

これは結構意外な意見だった。けど自分では逃げ道にしているというより親不孝だ、自分勝手だ、と言われるのを恐れている。というより自分で自分をそうやって追い込むことを恐れている。自分を自分で規定するのは良くも悪くも変えにくいから。

4. 恩を「借り」と捉えること自体が資本主義的すぎる

恩を「負債」と捉えてしまう考え方は、まるで金銭的な取引のようなもので、人間関係を損得勘定で見ているようにも感じられる。本来、恩はもっと流動的で、相互に巡るもの。Aさんから恩を受けたからといって、必ずしもAさんに直接返さなければならないわけではなく、それを別の人に与えることで、結果的に「循環」していくものではないか?もし恩を「負担」として捉えるなら、それは恩の本質を誤解している可能性がある。

これは割と自認していたし、中学時代に聞いた話と同じことだ。自分は結構損得勘定で付き合っている気がする。だから同じように相手も自分と損得勘定で付き合っているから深い関係にはならないのだと。面白いか、自分にストレスを与えないか、一緒にいて楽しいか、そこの一定の基準を満たすか満たさないかで付き合うかどうかが変わる。結構資本主義に毒されているのかも。


難しい。

だいたい大きな恩というのは親や家族からというのが多い。

だからそれを早い段階で昇華しきるのはなかなかできることではないと思う。

だからこそ恩は他者に送り続け循環させるものと捉えることが重要なのかもしれない。

自分が心の底からそう捉えられるようになるのはいつか分からない、そうなるのが先か、家族と距離をとるのが先か。

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