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表札

先日、近所を散歩していた時のこと。

自宅マンションから駅の方面に向かう坂道の途中に「森」という表札の一軒家があった。家屋は、二階建ての造りで推定築25年は経過していそうなものであった。きっと、この家には家長である森さんと、旧姓は異なるが家長の森さんに愛し愛され森となった人間とが暮らし、場合によっては旧姓が森となってこの世に生れ落ちたちいさな人間らが家族として幸せに暮らしているんだろう。または、暮らしていたんだろう。

そんな森家の表札は昔ながらの石をベースとして、名前を彫り込むタイプの表札だった。この家を建てたと同時に掲げ始めたと思われるそれは、経年劣化が進んでいた。20年以上、来る日も来る日も雨風にさらされている影響での汚れや剥げ、所々には苔のような黒い塊も付着していた。ただ、この世の中に森と見違う漢字は林しか存在しなさそうなので、この程度の汚れでは郵便配達員や初めて森家を訪れる客人へ迷惑はかからないだろう。

そんなことを考えていると、ある1つの仮説が想い浮かんだ。
 実は、この「森」という表札は風刺なのではないのか、ということ。

仮説の詳細はこうだ。
森家の家長である、森 直孝(仮名) が自身の「森」という表札を利用し、その表札を汚すこと(綺麗にしないこと)によって現代の森林破壊や大気汚染への憂いを表現し、その環境悪化への警鐘の一つとして、街に、地域に、そして国に、ひいては世界に一石を投じたのではないだろうか。もしも、森 直孝(仮名)がそのような人物であったとしたら見上げたものだ。単なる1世帯の家長のみで留まらせておくのは勿体ないほどの逸材かつ人格者だろう。

そんなことを考えながら、森家の前を通りすぎると庭先には植木鉢が幾つか並んでいた。その植木鉢に植えられた大小さまざまな不揃いな花々は、大変顔色が悪く萎れてしまっており、中には枯れてしまっているものもあった。その瞬間、ほんの数秒間の胸に保持していた僕の森 直孝(仮名)への畏敬の念は後ろから吹く向かい風に運ばれ消えていった。

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