夕焼けの荒野の上でも踊ろうよ。
私はマッチングアプリというものをしない。もちろん、周囲にはマッチングアプリで円満な関係性を構築して、幸せそうな人たちもいるし、否定はないが、じゃ彼らと愛について冴えない話をしながら、夜な夜な酒を飲むのかといえば、たぶん、ないだろうなという距離を保ち仲良くしている。もちろん、彼らにとってもそれが心地よい距離なのだろう。
アルゴリズムが便利に自分にとっての最適解のパートナーを紹介してくれる。感情を消耗する必要もないし、時間もかからない。もちろん、恋が実らないことは、とても辛いことだし、失恋というものを経験しているからこそ「休日をともに過ごし、互いに支え合える関係性」を獲得するための、最適解化された、マッチングアプリの利便性に惹かれてしまうことも、理由がわからないこともない。
しかし、私は関係性の中に含まれるノイズも含んで愛したいのだ。もちろん、手段としてアルゴリズムを選んだとしても、結局、会うことは生身の人間であるわけで、関係性にノイズもあるだろうし、互いの努力というものも必要だろう。それを否定するわけではない。
でも、違うんだ。
偶然じゃないとダメなんだ。選択肢の中で選ぶ愛ではダメなんだ。どこかが違うんだ。気がつけば、悪魔に魂を売っているにも関わらず、悪魔の天使のような微笑みに騙されてしまうようなイメージ。知らぬ間に起きるから怖いのだ。だから最初から、愛に別の方法論を探そうとしない。いつまでたっても、愛は、身体、そして精神に触れることで芽生える感情であり、記号やイメージが先行してはならない。表象からもっと踏み込む力を失ってはいけない。窓の外から眺めているだけではいけないのだ。
人工的(Artificial)なものが自然的なものに近づくというより、人間の根本的な感性というものが退化して、人工的なものたちが自然的なものに近づく前に、人工的なモノを自然だと思い込んで、技術の発展より先に、人工的なものと自然的なものの境界が崩れる特異点が訪れるのではないかなという不安がある。人間感性の退化が特異点を前にもってこさせる。そんな未来は残念で仕方がない。便利じゃダメよ。不便、ノイズを愛することに情報ではなく、知識と知恵が育まれる。ましてや、愛という名の人間の生きる機動力においてズルはいけない。
君は僕をつれてゆく、僕は君をつれてゆく。派手な記号やイメージに満ちて、実は土壌の栄養のない荒れ地、Wastelandを一人歩き続けている。今は2024年。子どもの頃の私が思い描いた21世紀はどんなものだったのだろうか。情報だけが浮き漂うホログラフィーな世界ではなかったはずだ。しかし、確かに覚えていることは、子どもの頃は、未来というものに何かしらの希望やワクワクした衝動的感情を抱いていたことには違いないということだ。それは、子どもの無垢な心が故の妄想に過ぎなかったのだろうか。
誰か、私と愛おしい逃亡に出よう。必要なのは、突然に降り注ぐかもしれない雨に一緒にさす傘、そうだね、君が唐突に見せてくれる愛おしい瞬間を目に焼き付けるためのカメラを持っていこう。もちろん、フィルムカメラか、ポラロイドにしよう。疲れたら肩寄せあって、休んでいこうとしよう。冬には南の国へ行き、夏には北の国へ旅に出よう。ふたつの体、ふたりの心を大事に、同じ道を歩こう。
ワルツ?ディスコ?小鳥のささやき声でもいいじゃない。僕は踊り方を知らないが、君とともに体を揺らすことならできるかもしれない。それを踊るといっていいのならば、あなたの姿を目に焼き付けて、私はこの大地の上に立ち、私たちは涼しいそよ風に心が踊らされて、それを「生きている」と呼んでもいいじゃないかなとは思うんだ。
そういえば、22歳のとき、ふくらはぎあたりにタトゥーを掘った。たしか、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』をしっかり読み込んでいた時期だったこともあり、かなり影響を受けたのだと考える。踊る男女の絵である。踊ることって、何か責任を背負わせるものからの放棄であると同時に、それでも動き続けるという意志を両方感じさせるすごく矛盾している行為のように感じられる。しかし、その矛盾をはらみながらも踊り続けることが、実はこのホログラムの花畑を眺めるのではなく、実際の荒れ地の上で立ち、それでも生きることを証明するという生動的生き方なのではないかと思うのだ。