見出し画像

手塚治虫とカニバリズム


最近、ふと手塚治虫のついて思い出したことがあった。
『ロック冒険記』という初期の作品は、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』というSF小説を下敷きにして書かれた、と聞いたのがきっかけだ。
よく考えたら『ロック冒険記』は、ちょっとカニバリズムっぽい描写があるなあ、と思った。
『ロック冒険記』を読んだことのない人向けに、かんたんにあらすじを説明する。
ロックという主人公が宇宙探索に出かけて、鳥人の住む惑星を発見する。そこで鳥人と交流するようになるが、大々的に交流が始まると、悪い地球人が、鳥人を食べることを思いつく。
まあ、相手が鳥だから美味いんだろうけど、ふつうにしゃべるからなあ。
二本足で歩いて、洋服も着ているし、しゃべって道具も使う。
そんな鳥人を吊るして毛をむしる行為は、カニバリズム以外のなにものでもない。
そういえば、『ロストワールド』のあやめさん(いや、もみじさんだったか?)のエピソードも思い出すとこわい。
『ロストワールド』は手塚治虫の初期SF三部作の一つで、地球に接近しつつある惑星を探索に行く話だ。
その探索の途中で、宇宙船が漂流し、食べ物がなくなる。
空腹に耐えかねた乗組員の一人が、思わず植物人のあやめさんを食べてしまう。
植物人というのは、天才博士が作り出した人造人間で、どうしてそんなものを宇宙船に乗せなければならなかったのか不明だが、もうカニバリズムを発動させるためとしか言いようがない。
植物人は双子の女性で、一人はあやめさん、もう一人はもみじさんという名前で、ふつうの女性として助手として働いているし、ラストでは主人公と二人で惑星に取り残されて、二人はその惑星のアダムとイヴになる、という展開からも分かるとおりに、人間とまったく変わらない。
そういえば、『鳥人大系』の肉食鳥が、草食鳥を食べたくて食べたくて我慢できずに、秘密クラブみたいなところで、ひそかに鳥料理を食べる、というエピソードも怖かった。完全にカニバリズムのイメージだ。
あと、『ジャングル大帝』のラスト。
ムーン山の探検中に遭難し、レオとヒゲオヤジだけが生き残る。
周囲は吹雪で一寸先も見えない。
ヒゲオヤジは今にも餓死寸前である。
そのときに、レオは言う。
「ヒゲオヤジ先生、ぼくを食べてください」
レオはライオンとはいえ、しゃべるし、ふつうに友達である。
ヒゲオヤジはためらう。
レオはヒゲオヤジが自分を殺しやすくなるように、わざと襲い掛かって、殺されるように仕向ける。
次のカットで、春になったアフリカの川を筏に乗って下るヒゲオヤジ。
レオの毛皮を身に付けている。
反対側からやってくる子供のライオン――これはレオの子で、ルッキオという。
そこでルッキオがレオの毛皮と再会する、という感動的なシーンになるわけだが、まあどう考えてもカニバリズムですわな。
ぱぱっと思い出せるだけ挙げたので、他にもあるかもしれない。
しかしふしぎと全部、初期作品である。
(まあ『鳥人大系』はそうでもないかもしれないけど)
なぜか。
そこでぼくはたいへん、たいへんなことを思い出してしまった。
それは手塚治虫のエッセイ集『観たり撮ったり映したり』のなかのある挿話である。
この本は、手塚治虫による映画評論の本だが、当時話題になった『ゆきゆきて神軍』に関するページがある。
『ゆきゆきて神軍』は、奥崎という過激なおじさんが、「天皇の戦争責任を問う」とか「田中角栄を殺す」とか騒ぎつつ、終戦直後に、戦地で処刑された軍人がいるが、これは違法ではないか、という問題について追及していった挙句に、戦地で人肉を食った兵隊がいたことが判明し、今はうなぎ屋を営む元日本兵をむちゃくちゃに批判する……という、結局なにが言いたいんだか分からんどうでもいい映画だ。
問題はこの映画を観た手塚治虫が、ある話を思い出した、という下り。
手塚治虫の父親は、東南アジアの激戦区をさまよった経験があるらしい。『野火』にもあるとおり、極限の飢餓状態で、頭が朦朧としていた。
しかし、もう死ぬ、というときになると、ふしぎと部下が肉を調達してくれる。あんまり美味いので、「これは何の肉か」と尋ねると、部下は「これはジャングルで獲れた白豚の肉です」と答える。別の日には黒豚が手に入ったりしたらしい。そうやって父親はぶじに生きて帰れた。
もしかして、その肉って・・・???
というところで、エッセイは終わる。
冗談めかして書いてあるが、当時、中学生か高校生くらいだった手塚少年は、ショックだったんじゃないか。
なにしろ別のページで、母親がタクシーの運転手と軽口を叩く様子を目撃して、「ぼくたんのマザーが、あんな下賤の者と親し気に話すなんて」とショックを受けるくらいのお坊ちゃまである。
自分の父親が人肉を食べて生き残ったのかもしれない。
そうじゃなかったのかもしれない。
あいまいな事実は、あいまいな記憶となって残り、作品に、微妙な影を落としたのではあるまいか。
明確なカニバリズムイメージは、初期作品にしか現れないから、そのトラウマは作品に書くことによって、昇華されたのではないか。
どうなんだろう。
こんなこと、だれも言ってないから、自信がないが。
だれかもっとくわしい人に分析してもらいたいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?