"The Spirit of Sanity"を読む
1999年9月にタヴィストックで開催されたシミントンの講義録を読む。全8回(最終回はディスカッション中心)の講義は"The Spirit of Sanity"として2001年に刊行された。この講義で語られているのは、同時進行で執筆されていた"A Pattern of Madness"というシミントン最大の理論書を補完する内容であるため、シミントン理論を理解するうえで避けては通れない代物である。ただ、ほとんどが講義内容なので、いくぶん散漫な印象を与える。ディスカッションも必ずしも噛み合っているわけではないので、読みにくい。
開会と閉会の辞を担当するのは、俊英イスカ・ウィッテンバーグである。この方は最近、鬼籍に入られた。日本では岩崎学術出版社から『臨床現場に生かすクライン派精神分析』や『学校現場に生かす精神分析』が翻訳出版されている。平易な言葉遣いで精神分析臨床のエッセンスを描き出した好個の書である。
ビオンが指摘した「PsからDへの移行」は、自身の心的なものを外在化し、それを憎むというパラノイド的視点から、自身の内側に心的なものを収納し、さまざまな情緒を感じ取る視点への移行を意味する。情動的な成熟は、創造性を発揮することを意味し、それは内なる心的行為の結果もたらされる成長である。「正気sanityとは、人間が創造できる状態であり、自分自身のなかにある要素をひとりの人間として創り出すことができ、自由に愛することができる状態」(p. 45)である。
この正気を妨げるのが「狂気madness」というパターンである。狂気は自らを傷つけてしまい、創造性を枯渇させる。この狂気のパターンを維持させるのが「増強因intensifier」である。これは「液化因liquifier」と「石化因petrifier」としてこころに作用する。こころは液状化し、ゼリーのように変化させられる。要するに、ぐちゃぐちゃな心的内容が出来上がる。そのゼリー状の内容物が遺漏しないように、外皮だけは硬く石化するのである。これにより、外見上はしっかりしているように映っても、中身はめちゃくちゃで「創造的な軸creative centre」を欠くパーソナリティが成立する。これが「ナルシシズム的布置narcissistic constellation」である。ナルシシストは、自身の中身のないこころを知られたくないため、慢性的な恥の感覚を抱いている(といっても、それらは外部に投影同一化されてしまっているのだが)。
この液化因は、従来、羨望・嫉妬・貪欲・万能として記述されてきた。人間は本来的には自由になりたい欲求を抱いている。情動にも本来的に創造的な側面が備わっており、情動行為の結果として自我は強化されてゆく。しかし、液化因により、自由が制限されてしまうため、当人は自身の内部に「原始的憎悪primitive hatred」を向ける。すると、情動の創造的な側面も乏しくなり、幅も限られてくる。憎しみに駆られるとほかの事柄が体験しにくくなるのは実生活でもあるだろう。ビオンが指摘したように、この内的な憎悪を引き受けて考えてゆくのか、あるいは外部へ排出して取り除いてしまおうとするのか、という岐路に立つ。前者に進と、痛みを伴うが心的成長が訪れる。後者に進むと、パラノイア的世界が展開し、「周囲が悪い」他責的なパーソナリティとなる。
自分の内発的な行為のみが成長をもたらす。そして、それは多くの場合、相当の苦境に立たされた際に、それでもなお「良心」に従って決断と行為を取れるのか、という問題になってくる。ここで、何者かを神格化して自身のゼリー状のこころに貪欲に取り入れると、内側に「神God」が安置されることになる。これは、信じていれば何も考えなくても済むという、免罪符的な効用しかもたらさない「偽りの神false god」である。この神もまた、人間の内なる心的行為を阻害してしまう。
こころがゼリー化していることは、それ自体がひとつのトラウマの結果である。こころは粉砕されてしまっており、原始的な憎悪で満たされている。その背後で、しかし、強烈な「執着attachment」が迫り上がる。「接着剤のような執着glue-like attachment」は、自身が「附着同一化adhesive identification」(E・ビックの言)する相手との分離を強烈に否認する。なぜならば、そうしないと自身が保てないからだ。それほどまでにゼリー状のこころは脆弱である。狂気のパターンにあって、「神」が内側にインストールされており、そのために、自分のことは「蟲worm」として体験される。
このように「神」と「蟲」、「接着」と「パラノイド」という二組の軸で構成される体験様式がゼリー状のこころを特徴づけている。これこそが「狂気のパターン」としてシミントンが描き出す世界である。シミントンの病理論はこのように要約できるだろう。人と人が出会う際にはそこに情動の嵐が起こる、というのはビオンの言であるが、シミントンは情動を目に見えない心的行為として概念化する。人と人は情動コミュニケーションをとっている。
このコミュニケーションが病理的に作用している場合、そこには投影同一化が働いており、その投影者は外部から情動をキャッチしていない。不快で持ち堪えられない情動を一方的に排出している。その情動は投影者の弱い部分を刺激し、自由に行為する能力を脅かすものである。そのため、しばしば、投影者はパラノイア的世界を形作り、周囲と壁を築いてしまう。その様相はナルシシズムであり、極度な形式が自閉症である。
このようなナルシシズム的布置はさまざまな要因——遺伝因や環境因——によってもたらされうる。いずれにしてもそれらは内外から押し寄せてくる、一種のトラウマ的要因である。これに対して、主体的に引き受けることができるのかどうかが、こころの健康を決定づける分水嶺となる。
自分の内側から発揮される心的行為しかこころの成長に結びつかない。この点でシミントンはブレない。シミントンは、能動的で主体的な姿勢を重視する。そのため、フロイトの「平等に漂う注意evenly suspended attention」やビオンの「もの想いreverie」に少し不満げだ。
シミントンのいう「観想contemplation」は、フロイトやビオンが指摘するよりも能動的な心的状態を指している。観想状態にある人物は、自分が観察している相手(乳幼児であれ、患者であれ)に対してきわめて能動的な情緒体験をしている。その情動は必ず被観察者に伝わるのである。「 伝達される観想的な行いは、子どもに内なる幸福感を与えるものだと思う」(p. 67)。受動的に観察している人物ではなく、能動的に観想している人物こそが他者との関係に参入し、他者に影響を与え、他者から影響を受けることができるのである。
ところどころ、目を開かされる記述に出会ったものの、全体的には掴みどころがない著書でもあった。それはひとえに僕自身が宗教的な言説や対立軸をキチンと把握していないせいもあるだろう。シミントン自身が、なにかの偶像を奉るような西洋宗教の多くに否定的であるように、彼はたとえばビオン、フロイトの言説を盲目的に信奉する分析家たちにも否定的である。なにかの言説を信奉するというのは、結局、内側に偽りの神をインストールすることであり、患者が蟲となって断罪されたり、あるいは患者が接着剤のように治療者に執着したりする事態が招かれるだけである。
本書で散りばめられたシミントンの理論は、"A Pattern of Madness"に結実する。