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『精神分析とスピリチュアリティ』を読む
シミントンを引き続き読んでいる。創元社から翻訳が出ている『精神分析とスピリチュアリティ』を再読している。原題は"Emotion and Spirit: Questioning the Claims of Psychoanalysis and Religion"で、1994年にキャッセル社から、第2版が1998年にカルナック社より刊行されている。日本で2008年に出ている訳書は第2版を定本としているようだが、現在は絶版の様子。どこにも売っていないようだ。Amazonでも高値であるため、読みたい方は図書館で借りるしかない。
本書の主題は「宗教」や「霊性spirituality」、「ナルシシズム」、そして「行為action」だ。宗教といっても、神学や宗教学的な取り扱い方ではなく、あくまで体験水準の「実践」と、そこからかけ離れてゆく「理論」への懐疑という形で宗教を取り扱うあたりがシミントンらしい。大上段に「宗教とは〜〜」「スピリチュアルとは〜〜」と語ることがないため、タイトルに惑わされず手に取ってみてほしい。
シミントンも高く評価しているエーリッヒ・フロムが例外的に宗教について論じているが、フロイト自身、相当の無神論者(なんなら「反神論者」)だったため、精神分析は宗教や霊性を毛嫌いし、あるいは忌避し、正面切って論じることがこれまでなかった。社会的・組織的に人間が幻想するための装置としてのみ宗教は機能しており、人が真実を知ってゆくうえで宗教は障害となる。
しかし、シミントンはこのタブーに挑み、精神分析と宗教は相補的であると喝破する。彼は宗教を「原始宗教primitive religion」と「成熟宗教mature religion」に区別する(ここで「原始」と「成熟」を対比している点は彼の痛恨のミスだと思う)。フロイトが考察の対象としていたのは原始宗教であり、自然の猛威や生存上の困難から人間が抱くさまざまな情動の投影が神として形をなしてゆく。原始宗教は「いまだ成熟に至らない宗教」(p. 13/邦訳: 33)を指す。
成熟宗教は、個人に「心の割礼circumcision of the heart」(p. 46/邦訳: 74)を求め、他者への思いやりを説き、「道徳性morality」(「道徳性とは、私たちが隣人および自身の自己性に向かう際の、精神的な志向mental intentである」(ibid./同上))を備える。ナルシシズムの大きな特徴である「自己中心性self-centredness」は「隣人を自分の欲求needsに奉仕する奴隷とみなすことを意味する」(ibid./邦訳: 75)。換言すれば、原始宗教は「自己本位」であり、成熟宗教は「他者本位」と言えるだろうか。
私を導く星は、理性によって確立できる宗教的真理というものがあり、それは一人ひとりの人間に直接かつ実際的に関わっているという信念である。私たちの多くは、伝統的宗教への信仰を捨て、それを政治的、哲学的、美学的理想への献身や、絶望に心を奪われた懐疑主義に置き換えている。人生に意味を見出すには、自己と他者を包含し合う必要がある。精神分析における解釈とは、患者と分析家の双方にとって意味がある言明である。意味とは、両者を超えて、より広範な影響を及ぼす現実である。
精神分析はスピリチュアルな試みのなかで、人間が何をしているのかを見極め、事の真偽や善悪の区別をつけようとする。すると、個々人が自分自身と結ぶ関係性に目を向けないわけにいかない。これが「良心conscience」の領域であり、その意味で精神分析の守備範囲なのだ。
しかしながら、私が良心に従う場合、その心理過程はまったく異なる。この場合には、私は行為したいと思ったときに行為する。つまり、自分自身の自由から行為するact outのである。良心に誘われているのでありながら、それに従うとき、私は自由に行為できるというのは逆説的に思える。これを理解する唯一の仮説は、良心は私のもっとも深い現実の顕れであり、それゆえ私はもっとも本当の自分であるものから行為しているのだという仮説である。けれど、私のなかにあるこの深い現実は共有されている。私と他者が関与している現実があるのだ。これにはもうひとつ重要な要素がある。私は良心に従い、誰かにほかでもないその行為をなぜとったのか誰かに問われたとき、私は思考に基づいた答えを返すことができる。つまり良心に従って行為し、私は考え、私は恐れではなく愛から行為することという3要素のあいだには密接なつながりがある。
しかし、ナルシシズムの問題に絡め取られている人びとの内的世界に他者は存在しない。本来的に人間は最早期の段階から対象関係的である。自我は精神対象に向かう行為の源であり、その行為の性質は志向的である。さまざまな精神対象が存在し、自我は「無意識的選択」により対象を選び取っている。そして、心身が生き残るうえで欠かせない精神対象が選ばれずに情緒的に拒絶されるとき、ナルシシズムの種が蒔かれる。
実に人生は、避けられない危機の連続であり、常に痛みと苦しみを伴う。精神的に健康な人とは、こうした危機に立ち向かうことができるだけでなく、不屈の精神でそれを受け入れ、幸福を勝ち取りうる人である。そのような人は、内面的ななにかに頼みとし、それを通じて他者と協力し合い、人生を闘う。私はこの内なる資質を〈ライフギバー〉と呼びことにしたい。
〈ライフギバー〉とは、ナルシシズムの状態では否定されている精神対象、あるいは逆に精神的活力のある状態では選択される精神対象に私がつけた名称である。それは、選ばれるという行為においてのみ存在する精神対象である。これは逆説的に聞こえるかもしれないが、私たちの実社会にも類似点がある。たとえば、友情は、友情が結ばれる行為のなかでしか生まれない——〈ライフギバー〉もまた、選ばれる行為のなかでしか生まれない精神対象である。〈ライフギバー〉が選ばれる行為によって、精神的現実が内なる所有物としてもたらされる。そしてその人は、人生の危機に際して必要となる内的資質をもつようになるのである。
「ナルシシズムとは、痛みを遮断する決断のことだ」(p. 125/邦訳: 170)。あらゆる精神的な問題の根本にナルシシズムがあり、精神分析の一義的な目標はナルシシズムの変形にある。つまり、精神分析は、最早期になされたナルシシズム的選択に抗うことになる。ナルシシズムに囚われた人たちは、いわゆる「気持ちが伝わる」とか「こころとこころの交流」とかがなかなか浸透しない。情緒的な飢餓やニードはすぐさま即物的なニードに取って代わってしまう。
ナルシシストは、他者の親密な関係性に参入できない。シミントンの語法で言い換えると、「運動行為」はとれるが「情動行為」をとれないのである。後述するが、この「情動」が浸透しないこと(間主観性が成立しがたいこと)がナルシシズムの特徴である。ただし、当人の内面では情動の伝播はほとんどないが、「気持ち」の変動はある。これが不快感となると運動行為で排出されたり、逆に褒め称えられる高揚感を求めて周囲を操作したりさせる。ともあれ、シミントンの行為論を理解するのが鍵だ。
投影同一化とは、行為の自由を束縛し、良心を圧殺し、他者との自由なコミュニケーションを阻害する、あの活動である。……自分の内なる欲求に反して特定の行いをするように圧力がかけられたとき、私は投影同一化の支配下にある。このような圧力はきわめて強力だ。そして、その源は超自我に由来している。
こころの内側には2つの行為の源がある。良心と超自我である。……
超自我を源とする行為は本能と密接に結びついている。完全に本能に縛られているわけではないものの、本能に近いのである。私たちはすでに本能を集団により駆動される行動と定義した。超自我は、この集団により駆動される行為が個人に引き継がれた遺産であり、そこには志向的行為のほんのはしりしかなかったのである。集団は、制裁によって——通常は集団からの排除によって——怠け者を懲らしめねばならなかった。
あらゆる「行為」は志向的であり、自我がその源である。その源泉の種別が「良心」か「超自我」かによって——前述の対比で言うと「成熟宗教」か「原始宗教」か——、行為の結果は異なるものとなる。バラバラだった「諸部分が求心的に動いている場合、そこには創造的行為に移ることができる、しっかりとまとまった自我が存在している。そしてこのような行為が次に良い気持ちをもたらす。……諸部分が遠心的な動きをしているとそこには自我の寸断dismemberingが生じ、そこから生まれる行為はさまざまな悪い気持ちを引き起こす」(p. 184/邦訳: 241)。
いささか図式的だが「良い-能動的-積極的-求心的-創造的-志向的」行為と「悪い-受動的-消極的-遠心的-破壊的-反志向的」行為があるわけだ。主体たる自我(「私I」)の「源source」——「物自体」——と客体たる他者の「対象object」を行為が結んでいるのである。その結びつきに開かれることが創造的な営みである。志向的行為は「霊的源泉spiritual source」と「霊的対象spiritual object」の結びつきである。
そして、自我自身の利に反する悪いパーソナリティ群の自我活動として「離反的自己against-self」も併存する。この悪い自己は「忘我的対象ecstatic object」と結びつき、自己全体を受動化し拘束する。これが「悪い行いvicious act」をもたらす。これを打ち破るには「徳のある行いvirtuous act」しかない。
徳のある行いとは、私というものを所有することである。私を私のものとするというこの行為、選択によってもたらされるこの行為こそが徳の行いである。「徳」という語は、ラテン語で強さを意味するvirtusからきている。自分自身を所有するという行いには、強さが必要である。これを概念化するには、パーソナリティを複数の部分から構成されるものとする図式によるしかない。
いや、ちょっと待ってほしい。これは相当に価値判断の要素が入っていないだろうか。
シミントンは分析家のスタンスや理論に価値観が入り込むのは防げないという。彼は虐待を例に挙げ「闘争型分析家Fight Analyst」と「逃走型分析家Flight Analyst」を区別する。これらは虐待に立ち向かうか逃げ出すかの選択肢をとっており、シミントンはいずれも不十分であるという。彼が重視する価値観とは、自己の諸部分の内的行為に注意を向ける努力、「信の行為act of faith」が重要であるという視点だ。そして、その行為に伴う「選択choice」である。
この選択によって、反人間的な力anti-human forceが個人の資本として蓄えられる。反人間的な力は、ちょうどマクベスに描かれているように、個人をさらなる堕落に追いやる。一方、選択は、常になにかと選び取ったり退けたりするものであるが、それはパーソナリティのなかになにかを築き上げるものである。徳には選択が存在しており、それゆえになにかが二者択一で選び取られている。
善Goodを選択することで、パーソナリティに備わるあらゆる行為の領域がひとつにまとめ上げられ、当人の人生に意味と自由が与えられる。善が自由を与えるのは、それが具体的な現実に決して縛られないからである。善は霊的なものspiritualであって、決して一個人や一組織や一握りの国々に縛られるものではない。真理Truthとは異なり、善は知的に認められるような対象ではなく、実践的行為が目指す対象である。善は真理から切り離すことはできないが、その行為は当人の情動生活に深く関わる。……熟考contemplationは真理を認めるものであり、善に向かう情動行為と切り離すことができない。
シミントンはこの「善の選択choice of Good」——選び取られなかったものは「反人間的なもの」と呼ばれる——に際して、「真の神秘家true mystic」と「偽りの神秘家false mystic」の区別をする。真の神秘家は「自分自身となる決意」をし、知るという内なる行いを支えとする。偽りの神秘家は「他者へのなりすまし」により、名声や権力を手にしようとし、内なる官能的満足に耽る。両者ともにカリスマ的な魅力を有しているが、成熟宗教の信念を秘めているのは前者である。生存本能に突き動かされている(「原始精神性primitive mentality」)のは後者であり、本能から超脱した行為のあり方(「成熟精神性mature mentality」)を備えるのが前者である。
この神秘家の区分は分析家の区分ともなりうる。分析家に必要なのは「情緒的に与えることemotional giving」である。情動行為は「目に見えないunseen」が、相手の「気持ちfeeling」が動くという形で間接的に目撃・観察できる。まず第一に「情動とは行為なのであって、気持ちはその記録registrationである」(p. 184/邦訳: 241)。シミントンは情動と感情feelingを分けている。
情動行為は、情緒的親密さがやりとりされる領域においてのみ知ることができる。精神分析の非常に重要な原則とは、分析家が患者の情動的核心を表象するということである。これが転移である。
これは、翻って言えば、分析家が自身の気持ちを内省することにつながる。つまり、逆転移の吟味である。この治療実践の基礎には、患者による目に見えない情動行為の結果として自分は何を感じているのか、という自問自答がある。患者(のにならずあらゆる人)の主体のなかには多種多様な「作用因agent」が存在する。そのなかでも、認められずに見て見ぬふりをされている自己の部分に患者が気がつくことが治療機序として考えられているのである。
症状の改善レベルの治療は「心理療法psychotherapy」であり、「悪い行為を良い行為に変形させること」を目指すのが「精神分析」である。宗教は善行を祈りという実践と結びつけるが、精神分析は祈りではなく「解釈」を用いる。宗教が厳しく諌めた「万能」と「羨望」は、奇しくも精神分析が描き出した精神的不調の基盤にあるものでもあった。
精神分析は、家族的な親密さ、あるいは性的な親密さによって結ばれた人びとのあいだで機能する道徳性である。親密さの絆で結ばれた人びとのあいだには、私たちが情動的と名づける活動の領域が存在する。情動的なものは、関係性が鍛え上げられてくる土壌である。
なかなか野心的な著作であったが、個人的にはエーリッヒ・フロムの著作のほうが一貫性や読みやすさがあったかな、と思う。この宗教の問題は、ナルシシズムと並び、シミントンの生涯のテーマであり、両者をつなぐのが選択と行為の理論である。宗教の問題は、のちに正気と狂気という話題を通じて語り直される。"The Spirit of Sanity"という著作であり、"The Blind Man Sees"という本である。まぁ、別にシミントンにのみ関心があるわけではないので、ほどほどにしておかないとなぁ。シミントンはうっかりしているとちょっと観念論的な方向へ行きがちなので、読み手は自分なりに照準を合わせて読んだほうがいいと思う。